復讐するは我にあり (1979)

文字数 841文字

【今村昌平が見せる地獄】 1979/6/23



本作が殺人鬼を扱ったシネマだけのものでないことは、じゅうぶん承知していた。
実際画面で殺されるのは三人だけ、
数の比較で言えばもっと大勢殺されるストーリーもある。
つまり、殺人行為よりも、殺人者の生き方、
それ以上に重要なのが主人公(殺人者)が関わりあう人々の生き方が観客に問いかけてくる。

特に、父(三国連太郎)との対立は、
幼い頃の父親像の崩壊といった生やさしいものではなく、
人間の本能、その根源に迫るものがある。
恨みもない人を五人も殺し、「自分が死刑になるのも当然」と考える主人公に、
初めて殺意を持たせた父親の真意は? 
息子を世に送り出した業をそれで救済できると思ったのか?
いや、父は息子の中に己の救済されない魂を見て取ったのだ。
嫁、加津子との地獄の愛。

それは自分の精神の命ずるがまま生きることもない偽りの感情であり、
それは自らに封じ込めることしか出来ない、
束縛された生き方を象徴するものである。

無論、神の教えから破門されることぐらいでは、この罪は解き放たれるものではない。
または、息子の骨を投げ捨て去ることによっても、逃れられるものでもない。
骨がストップモーションで空中に留まる・・・丁寧な演出であった。

もうひとつ、
ひさ乃を殺しに階段を昇っていく横を母が通り過ぎ、
そのまま次のシーンにつながる・・・。
主人公の告白にもある、自分でも理由が分からない殺人の向かう際に、
父のもうひとつの罪の対象である妻が、
死を覚悟して嫁に対決し赤裸々な告白をする。

主人公が人間に課せられた運命を振り捨てて生きることで、
自らを解放した一方で、
父はその息子の宿命まで背負い生きていかねばならない。
それは、我々平凡な人間にも課せられた宿命なのである。

父と息子の形にとどまらない、永遠のテーマ。
とてつもない恐怖を感じ取る。
娯楽大作の枠の中で、メッセージをたたきつける今村監督の力量を目の当たりにした。
今村監督の意図、
一貫した主張を読み取るにはまだ地獄の経験が少ないようだ。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み