硫黄島からの手紙 (2006) 

文字数 1,608文字

【クリントのトリビュートここに完結】 2006/12/18



【1】クリント・イーストウッドはなぜ予定外の監督にこだわったか

まったくの私見で恐縮だけどクリントの監督としての矜持として、次の点が見えてくる;
①説明過剰にならない。観客は創り手が想像する以上に賢い。
 特に冗長なせりふでの説明はタブー。
②観客あってのシネマだ、独りよがりもこれまたタブー。
 観客が何を求めるかが優先し、これを察知する。
③投資家を裏切らない。予算内で仕上げることが大切。
④その代わり、投資家には見返りとして自分のシネマプランを呑んでもらうことも辞さない

いまや「硫黄島2部作、日米から見た硫黄島の戦い」などと喧伝されているが、
もともとは《父親たちの星条旗》のみ監督予定だったとのこと。
それが大きく変更したのを私が知ったのは8月15日新聞紙上での広告、
「日本のみなさまへ」と題するクリントからのメッセージであった。
彼が日本語のハンディを負いながら本シネマを監督した理由は、
このメッセージにしっかりと表現されている。
言葉で言えば「トリビュート」・・・
この場合は「手向け」とでも理解したほうがいいのだろうか。
アメリカの若者たちだけでなく日本側の兵士にも「トリビュート」が必要だとする
クリントの気持ちが痛いほど感じられた。
ここに至り多くの日本人が、硫黄島に、過去顧みられなかった硫黄島に密着することになった。

【2】シネマとしての《硫黄島からの手紙》の意義
クリントは本シネマでも《星条旗》同様に歴史的事実を正確に表現しようと、
映像細部にまで気遣っているのが分かる。
しかし、日本軍がほぼ全滅したため情報の伝達がなされず、
戦闘の詳細は今に至って明らかになっていないことから、
《星条旗》のような偏執的な再現ではなくハリウッド的シネマ作法に則っている。
渡辺謙が主演、共演として二宮和也が作動しているスターシステムだ。
二人の絡みは終盤一気にテンションを上げてくる。
スターシネマの類型とも言える展開のなか、
二人の生き方にクリントの「トリビュート」が捧げられていた。
僕は当初からクリントが2部作をどのように撮り分けるのだろうか?
と気になっていた。
結果、印象でしかないが、
《星条旗》はクールでマクロ、
《手紙》はエモーショナルでプライベートな体裁になっている。
先のマクロバージョンから今回の濃密な俳優魂のぶつかりへの変化に、
正直なところ最初は戸惑った。

資質の異なる渡辺謙と二宮和也の食い合わせには、今も100%納得するものではないが、
結果として悪くない。
華のある渡辺謙さん、世界のKEN WATANABEになったのだとつくづく思った。

【3】2部作としての評価
《父親たちの星条旗》がアメリカで公開されたのが10月21日、
中間選挙の直前であったことは偶然ではないだろう。
61年前の戦いにおけるアメリカの若き兵士たちの苦悩、
生を奪われた悔しさ、生きながら壊れていく哀しさを描くこと、
それはイラク戦争への問題提起であった。
ただしシネマの視点は終始戦場で戦った兵士に注がれていた。
若き兵士たちへの純粋なトリビュートに満ち溢れていた。
その代わり、群集としての兵士たちが主役であったため、
兵士個人の掘り下げ方には限界があった。
これを不満とする向きもあったかもしれない。

だからこその《硫黄島からの手紙》だった。
最初から生き残ることの叶わない戦いに臨む司令官と兵士。
中将が兵士に「君を助けることが2度あった、2度あることは3度ある・・」
と励ます言葉の中に
父親から息子へ伝えたい優しい想いが感じられた。

その兵士が、61年後の世界に「手紙」を残すことになるという感動の筋立ては、
前作に欠けていたヒューマンな息遣いがベースになっている。

脚本は正当的すぎるとはいえ秀逸な出来だった。まるで日本映画のごとく秀逸だった。
2部作どちらも優れたシネマであり、
両方観ることでクリントの「トリビュート」は完成する。
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