家族の肖像 (1974)

文字数 707文字

【シンドイ】 1979/9/19



シネマが総合芸術とはいえ、そこに監督という役割の人間がいるとすれば、観客と監督の相性があってもいいはずである。
ヴィスコンティの個性は作品を観ればわかるし、人間の愛と生を訴える思想も結構なことだけど、映像面で僕はどうも性が合いそうも無い。
高校生のときに感じた《地獄におちた勇者ども》のエネルギーは錯覚だったのか?
昨年度洋画ベストワン、と騒がれた作品だとはどうしても信じられない。
いま敢えて明らかにしておかないと、あの「集団催眠」のような絶賛評のなかで、僕の気持ちが埋もれてしまう。
明らかにヴィスコンティのモノローグと思われるような言葉が流れ、彼の晩年の心の裡が描かれるのであるが、いかにも重たいのである。

母や妻との思い出を封じ込め、ひとり死を待つ老人。
しかし彼は政治、金、肉欲から解き放たれることがかなわない。
死を前にして世俗との関係も断ち切れない上流社会に生きた主人公。
彼は人生で何を成し得たのか?何を残すことが出来たのか?

というテーマに浸るのは、やはり「しんどい」。

シネマで無ければならない理由の無いシネマとは「しんどい」ものなのだ。
往々にして芸術大作とか社会派と称される場合、この手のテイストが多いのだが、
いやはやヴィスコンティともなると年季が入っているだけに、
無下に「しんどい」の一言で済ませるわけにもいかず・・・
またまた「しんどい」のだ。

これだけの重さを晩年のスタイルにしたヴィスコンティと、ヴィスコンティを擁護するイタリア映画の底知れぬ芸術パワーを思い知らされたわけだが、それでも本シネマはNO1作品とは思わない。

と言ってバート・ランカスターの名演を否定するわけではない。



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