復活の日 (1980)
文字数 1,662文字
【いろんな意味で皮肉な作品です】 1980/9/16
いろんな意味で皮肉な作品です。
まず、
小松左京の原作が、僕にとって若き日の印象深い小説だったと同様に、
話題の人物、角川春樹氏にとっても魅力ある小説だったということ。
あまっさえ、彼が映画ビジネスを手がけたのは、
この《復活の日》を映画化したいがためであったことを知ったとき、
僕は失望し戸惑い、恐れすら感じました。
というのも、《犬神家の人々》はまだしも《人間の証明》から後の角川映画に関していえば、
原作の映画化により話題づくりと文庫本の売上に成功した代償として、
シネマをそして原作をことごとく毀してきているからです。
過去の原作に同情はするものの、特別な想いは何ら持ちえませんでしたが、
小松左京だけは勘弁して欲しい、見逃してはくれませんか・・・、
と製作発表を聞いた時祈ったものでした。
《復活の日》が映画化されるに際しての最初の「皮肉」でした。
とはいえ、小松ファンとして完成シネマを無視するわけにもいかず、
ようやく今頃、恐る恐る暗闇に座ってみました。
いやはや、なんと、《復活の日》は、しっかりとその生命を輝かせているではありませんか!
あれほど原作毀しをしてきた角川映画が今になって急に開眼してしまったようでした。
とき既に遅し、心あるシネマファンは、既に角川映画の本質を見抜いてしまい、
僕のような古くからの小松ファンでさえ、本作には最初から期待していなかったぐらいでした。
ですから、いくら広告戦略で前評判を煽ってみても以前ほどの
角川ブームにはならなかった・・・と思います。
「オオカミが来た!」の「皮肉」ですね。
これまでの皮肉は、どちらかというと小松作品への僕の思い入れに起因していると
わかっていますが、
複雑な気分は隠しようがありません。
今更「今度の角川映画はなかなかいいよ~」とも言いにくものですね。
もすこし素直になりましょうか。
本シネマは極めてスケールの大きい小松原作の映像化として、その限界に迫っています。
もちろんこれも過分な褒め言葉ではありますが。
近未来破滅テーマをあつかう時、しばしば活用する「映画的省略」を
敢えて回避していることが、実は今回の成功原因なのです。
(例えば地球は猿が支配していたと言う省略が衝撃的で効果的なのです。)
本来、映画的省略・・またはモンタージュ創作は映画作法の原則ですが、
このテクニックすら駆使できなかったところに、
過去の角川映画に原作主義誤謬を読み取ることもできます。
今回はこの映画的省略は不要でした。
なぜなら《復活の日》は壮大なる地球神話です。
そして小松が伝えたかったテーマは、
その神話の展開すべてです。
神話は省略できないものです。
これは「幸運な皮肉」でした。
他方、壮大な神話の映像化に際してまず必要なのは「物的」表現、つまり膨大な資金でした。
ここにいたって角川映画がスクリーンに表現すべき原作に、
ようやく巡り会うことなったわけなのです。
もしかしたら「単純な皮肉」なのかもしれませんね。
とはいっても、原作そのままには簡単に映像化できたわけではなかったでしょう。
いろんな苦心の跡が見えます。
無声映画もどきに白抜き文字で時の経過や状況説明が付け加えられるのもその類でしょう。
僕が原作を読んだのもずいぶん昔のこと、
細部は記憶していない今の状態で、ストーリーが理解できたことは、
それだけでこのシネマの成功が証明されたものと言えるでしょう。
南極ロケ、ハリウッドスター共演などなど日本映画としては破格のスケールでした。
人類破滅をこのように世界規模で描く新鮮な驚きがあるからこそ、
対極にある日本独特の湿ったニュアンスのシーンもすんなり受け入れられるものです。
死を前にした少年とのマイクごしの絡み、
息子の死に雪原に飛び出す父親・・・などのエピソードも生きていました。
テーマである、人類への深い愛情をベースに、
総じて良質の娯楽作品に仕上がっていました。
「LIFE IS WONDERFUL」・・・・
主人公の呟きのなかに小松の哲学そして
「すべての皮肉」を感じ取りました。
いろんな意味で皮肉な作品です。
まず、
小松左京の原作が、僕にとって若き日の印象深い小説だったと同様に、
話題の人物、角川春樹氏にとっても魅力ある小説だったということ。
あまっさえ、彼が映画ビジネスを手がけたのは、
この《復活の日》を映画化したいがためであったことを知ったとき、
僕は失望し戸惑い、恐れすら感じました。
というのも、《犬神家の人々》はまだしも《人間の証明》から後の角川映画に関していえば、
原作の映画化により話題づくりと文庫本の売上に成功した代償として、
シネマをそして原作をことごとく毀してきているからです。
過去の原作に同情はするものの、特別な想いは何ら持ちえませんでしたが、
小松左京だけは勘弁して欲しい、見逃してはくれませんか・・・、
と製作発表を聞いた時祈ったものでした。
《復活の日》が映画化されるに際しての最初の「皮肉」でした。
とはいえ、小松ファンとして完成シネマを無視するわけにもいかず、
ようやく今頃、恐る恐る暗闇に座ってみました。
いやはや、なんと、《復活の日》は、しっかりとその生命を輝かせているではありませんか!
あれほど原作毀しをしてきた角川映画が今になって急に開眼してしまったようでした。
とき既に遅し、心あるシネマファンは、既に角川映画の本質を見抜いてしまい、
僕のような古くからの小松ファンでさえ、本作には最初から期待していなかったぐらいでした。
ですから、いくら広告戦略で前評判を煽ってみても以前ほどの
角川ブームにはならなかった・・・と思います。
「オオカミが来た!」の「皮肉」ですね。
これまでの皮肉は、どちらかというと小松作品への僕の思い入れに起因していると
わかっていますが、
複雑な気分は隠しようがありません。
今更「今度の角川映画はなかなかいいよ~」とも言いにくものですね。
もすこし素直になりましょうか。
本シネマは極めてスケールの大きい小松原作の映像化として、その限界に迫っています。
もちろんこれも過分な褒め言葉ではありますが。
近未来破滅テーマをあつかう時、しばしば活用する「映画的省略」を
敢えて回避していることが、実は今回の成功原因なのです。
(例えば地球は猿が支配していたと言う省略が衝撃的で効果的なのです。)
本来、映画的省略・・またはモンタージュ創作は映画作法の原則ですが、
このテクニックすら駆使できなかったところに、
過去の角川映画に原作主義誤謬を読み取ることもできます。
今回はこの映画的省略は不要でした。
なぜなら《復活の日》は壮大なる地球神話です。
そして小松が伝えたかったテーマは、
その神話の展開すべてです。
神話は省略できないものです。
これは「幸運な皮肉」でした。
他方、壮大な神話の映像化に際してまず必要なのは「物的」表現、つまり膨大な資金でした。
ここにいたって角川映画がスクリーンに表現すべき原作に、
ようやく巡り会うことなったわけなのです。
もしかしたら「単純な皮肉」なのかもしれませんね。
とはいっても、原作そのままには簡単に映像化できたわけではなかったでしょう。
いろんな苦心の跡が見えます。
無声映画もどきに白抜き文字で時の経過や状況説明が付け加えられるのもその類でしょう。
僕が原作を読んだのもずいぶん昔のこと、
細部は記憶していない今の状態で、ストーリーが理解できたことは、
それだけでこのシネマの成功が証明されたものと言えるでしょう。
南極ロケ、ハリウッドスター共演などなど日本映画としては破格のスケールでした。
人類破滅をこのように世界規模で描く新鮮な驚きがあるからこそ、
対極にある日本独特の湿ったニュアンスのシーンもすんなり受け入れられるものです。
死を前にした少年とのマイクごしの絡み、
息子の死に雪原に飛び出す父親・・・などのエピソードも生きていました。
テーマである、人類への深い愛情をベースに、
総じて良質の娯楽作品に仕上がっていました。
「LIFE IS WONDERFUL」・・・・
主人公の呟きのなかに小松の哲学そして
「すべての皮肉」を感じ取りました。