十三人の刺客 (1963)

文字数 970文字

【またぞろ、リメイクにみる恐怖】 2010/10/9



先週、鳴り物入りのリメイク作を観た。
あまりの まとまりの無さに唖然としていたこの一週間だった。

前作がこんなはずであったわけも無い・・・という想いと、
現実には前作の記憶が無い焦燥から再観してみた。

誰に 申し訳ないといえばいいのかよくわからないが、
申し訳ないが、前作のほうがシネマらしかった。
あえて前作がより時代劇らしかった・・・とは言わない。
それはある程度当たり前のことだから。

時代劇が毎週封切られていた頃と現在での時代劇作りのハンディは大きい。
役者、美術、大道具・小道具の熟練度の差を想像するのも容易だ。
でも1963年時点では、誰も日本人は「ちょんまげ」をのっけていたわけでもなく、
参勤交代の大名行列が大手を振って町人をひれ伏させていたわけでもない。
当時の映画人も「時代劇」を創造していただけで、決して日常を映像化していたのではない。

そう、 シネマとは想像力による総合芸術でしかない。
今回観直してみれば、本シネマは、劇中で台詞にもなっている「侍の一分」を再構築した壮絶アクションだった。悪である将軍家血筋を暗殺すること、それを阻止すること、それぞれの「侍の一分」に集束していた。そのテーマを支えたのが当時としてはリアルに思えたであろう殺陣、実は今観なおしてもリアルだった。これを時代劇の再構築という。

リメイク版では、観客ターゲットを拡げバラエティ化したことを再構築というらしい。
厳しい言い方だけどリメイク版は再構築ではなく「脱シネマ化」だった。
誰が見ても、だからTV放映しても幅広い顧客には受け入れられるだろう。
僕の恐怖の核にあるのは、こんな脱シネマ化が繰り返され常態化することである。
安易なリメイクの形をとってシネマの魂がどんどん削られていく。

たとえば、
13人の刺客が相対できるのは50数名だと刺客が自ら認める。
策略は「迷路のみ」、侍の一分が見て取れる。
リアルではないか。
13の刺客が200名超の集団とどうやって切り結べるというのか?

勝てばいい、斬って斬って斬りまくれ、小細工もあり・・・・これは平成のゲーム理論だ。
リメイク作が再構築した脱シネマワールドには拠って立つ土台がもろく希薄だった。
そんなことが今、前作を鑑賞してみてよく理解できた。

その前作 決して古色蒼然としてはいなかった。
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