ドッグマン (2018) 

文字数 830文字

【迷えるイタリアを象徴する悲劇】 2019/8/26



予告編の宣伝コピーであるから本気で信じていたわけではないが、
「近年のイタリアシネマにおける傑作」の甘い誘いに乗ってみた。

そもそも「近年」の範囲はあやふやという以上に、
僕は普段のシネマ鑑賞でイタリア物に接する機会が希少だ。
この10年間でも一般的シネコンでの通常上映作品は指で数えることができる。
「君の名前で僕を呼んで(2017年)」、「ある天文学者の恋文(2016年)」、
「グレイト・ビューティ(2014年)」、「鑑定士と顔のない依頼人(2013年)」、
・・・これらシネマも本来の意味でのイタリアシネマとは違うのは、
グローバル化(EU、ハリウッド資本)の賜物なのだろうけども。

ネオレアリズモ とか ヴィスコンティとかを懐かしむわけではないが、
時代を切り取るシネマの力を今のイタリアにすがる僕が欲張りなのかも。

さて本作はといえば、
イタリアの小さな町の小さな犯罪のお話
・・・その意味ではネオレアリズモ的舞台設定ではある。
「ドッグマン」という犬のお世話ショップを経営する気弱な、
それでいて強欲な男が主人公マルチェロ。
離婚したのもおそらくは彼のそんな性格が要因だろうが、
娘と会う休日を楽しみにしている普通の父親でもある、ネオレアリズモっぽい。
マルチェロには友達がいない、チンピラのペッシェのほかには。
コカインの売人を裏稼業とするマルチェロに、当然犯罪のツケが回ってくる、
それは友達ペッシェの暴力という形で。

全編の舞台となる暗い街並み、
イタリアの華やかさはみじんもない登場人物の日常。
生きる目的は「お金」という世界的スタンダードに呑み込まれていくイタリア下町の男たち。
極犯罪なんてこんな他愛もないきっかけで起きるものなのだ、
なるほど ネオレアリズモかもしれない。

しかし、そこに一片の「希望」「自省」すら見えてこないのは、
なにかヨーロッパの未来を示唆しているのだろうか。

ネオレアリズモとはちょっと異質なものが混じっていた。
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