影武者 (1980)

文字数 1,672文字

【壮大なテーマが一級のエンターテイメント】 1980/6/2



いやはや話題作である、それも黒澤明ゆえの話題が渦巻いている。
公開前から、「賛否両論真っ二つ」などと報じられたが、
評価がひとつというシネマなどは存在しないし、そもそも僕は人の評価は気にしない。

総合娯楽芸術であるシネマは一般大衆の受け止め方が真の評価だ、
別の言葉にすると社会的話題と共感を提供できる作品が優れている。

で、実際に「影武者」はどうだったのか?
素直に考えてすばらしい作品だった・・・
「すばらしい」などという月並みな表現では全てを言い尽くすことができるわけもないし、
極言すれば映像の評価を文字にすることさえ本来は不可能なはずだ。
黒澤自身、作品に関してはいつも「観て下さい」としか云わない。

観た感想を伝えたい;
「影武者」の完成度は望みうる最高に到達している。
今までの黒澤作品と違和感を感じるとすれば、彼の人生の積み重ねと同時に、
現在の邦画に対する批判がその映像に影響していることが読み取れる。
この傾向は、前作「デルス・ウザーラ」にも強く感じたが、
ソビエト映画という枠組みが理由かと誤解して、黒澤自身の問題とは気づかなかった。
今回「影武者」を観て、彼の内面的変化が明らかになってきた感が強い。

黒澤の言葉をそのまま信じると彼の使命は「日本映画復興」ということになる。
その意味するところは角川映画のごとき中身のない大作主義でもなければ、
ニューシネマ系統でもない。
敢えて言えば「古き良き時代」への立ち返りである。
そしてここまで落ち込んだ邦画界を憂うる気持ちと、
映画界の天皇としてのプライドが「影武者」を創らしめたのだろう。
であるから、「影武者」をして、
ひと昔前の映画だとか、観念的過ぎるとかの批判は本質を見ていない批判であろう。
同様に、時代劇大作ということで
「七人の侍」や「椿三十郎」のアクションを期待した向きが
『オモシロクナイ』と表明しているが、
チャンバラさえあれば楽しいというマニアには、これまたお気の毒であった。

実際に、最近の復活時代劇と称する作品がマカロニ・ウェスタンばりの強烈、
残酷な殺陣を売り物にしていることに、ウェスタン好きの僕ですら不安を覚えていた。
あの超リアリズム殺陣は黒澤がとっくの昔に創作したスタイルであって、
マカロニ・ウェスタンがそれを真似たにすぎない。

今更日本映画がそれを取り入れるというのは、進歩のない愚行でさえある。
ところで、シネマの面白さに基準を設けるのは、申すまでもなくとても難しい。
ただ、チャンバラのない時代劇が面白くない・・・
という基準はまったくの見当はずれではない。
戦国時代を舞台にした本作をこの基準に当てはめれば、
致命的と思われても仕方ないだろう。

だが、「影武者」はこのような基準が当てはまるレベルを超えた
エンターテイメントに仕上がっている。
そこにあるのは戦国の世に生きた男たちのロマンそのものであった。
壮大なテーマ自体がエンターテイメントになりうるところが
黒澤作品の偉大な証拠である。

映像に表れる細やかなリアリズムが壮大なロマンをしっかりと支える。
リアリズムは黒澤映画の大きな特徴であるが、
ここにいたって、リアリズムの追求という段階を見る思いがした。
信玄狙撃を再現する鉄砲足軽シーン、
観客に納得させると同時に冗長な説明に陥ることなく、作品の面白さに取り込んでいる。

高天神城攻略における信玄本陣の空気、
ただの一場面の斬り合いシーンも無いにもかかわらず、
サスペンス、スリルを盛り上げていた。
黒い画面のなか、燃える松明のもと、本陣を守る武者の動き
・・・これだけで観客は全てを感じる。
影武者を身を挺して守る小姓や近習者から伝わってくる恐怖、
リアリズムに支えられたこの本陣襲撃は,黒澤「影武者」の象徴的なシーンだった。

実は、カンヌでグランプリを受賞したことが少し心配だ。
カンヌゆえに、「影武者」にある観念的、社会派の印象が強調されないかと危惧している。
その哲学的意味合いは論議されて大いに結構だが、
本作品の本質がエンターテイメントであることには変わりない。

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