靖国 YASUKUNI (2007)

文字数 874文字

【不思議の国「靖国神社」】 2008/11/3



当たり前のことだけど、
ドキュメントシネマがノンフィクションだと思ったら大間違い。
ノンフィクションにしても作り物でないというだけのことだ。
登場人物がいる場合でも、彼らは演技はしないまでも誘導され映像は構成される。

「靖国」という難物に取り組むドキュメントシネマに構成の意図がないわけもない。
この意図するところが那辺にありや? 
果たして意図の切れ具合は如何に?
そんな姑息な観方をさせてもらった。   

何故姑息かというと、
僕自身「靖国」に関してバイアスのかかった接し方しかできないからだ。
バイアスの最たるものは、暴力抜きに「靖国」を思い描けないことだ。
作品中でも「英霊」と呼ばれている戦死者たちは、国によって暴力行使を強制され、
挙句には「死」という暴力の極に至った人たちだ。
むろん英霊のミッションは死ぬことではなく、暴力を行使することだ。
暴力のための訓練も、道具も、そして大義名分もきちんと国が用意し強制する。
戦争とはそういうものだといわれようが、僕の感情は全くこの暴力を受け入れようとしない。
そのおまけとして、今の「靖国」擁護の影にも暴力を嗅ぎ取ってしまう。

そして決定的なことは「靖国」に行ったことがないということ。
「靖国」を訪れた友人によれば、そこはある意味ワンダーランドだという。
いつかワンダーランドを体験してみようと思いながら、前述の感情的拒否に屈してきた。

その意味からすれば、
本作品は、僕にとって格好のガイダンスになるはずだった。

しかし作者の意図は「靖国」の形を借りてより奥深い戦争責任に言及する。
「靖国」の日常と「日本刀」造りを執拗に追いかける構成のなか、
観る者は、そこに日本刀が象徴する日本精神と戦争責任の混乱に至る。
ドキュメント映像は偏向を避ける努力をしているかに見えて、
確りと告発の流れが強まる。
単純に「靖国」を経験するシネマではなかった。
そりゃそうだろうな、中国人監督にすればこう意図するほかないだろう。

こと「靖国」に関して正直な印象とすれば、
「まさに暴力のワンダーランド」というところか。
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