ひまわり (1970)

文字数 813文字

【愛のメモリー】 2007/7/19



珠玉の名作という手垢にまみれた表現は常々控えさせてはいただいているが、
本シネマには敢えてこの言葉を捧げる、
珠玉の名作だから。

40年近くの時を隔てて今に至り僕の魂を揺さぶるこの想いは、
《ひまわり》がシネマのひとつの完成型だから。

そこに、僕は名匠たちの類稀な芸術の粋を観る。

イタリアネオリアリズム集大成、
品格ある無駄の無い演出、
美しいモンタージュのヴィットリオ・デ・シーカ監督。

当時、地球上絶妙・最高の「男と女」コンビだった、
マルチェロ・マストロヤンニとソフィア・ローレン。
製作はソフィアの夫君でもあるタイクーン・カルロ・ポンティ、
ソビエト撮影の功績は計り知れない。
国策的協力といわれようと、リュドミラ・サベリーエワの美しさに僕は素直に降参した。
音楽監督のヘンリー・マンシーニは、「これぞ、テーマ曲」伝説をものにした。

シネマを覆いつくすのは、切々たる糸口のない哀しみ。
オープニングからエンディングまで、容赦なく哀しみに満ち満ちている。
今回再観して気づいたのは、
この哀しみは戦争のもたらす悲劇であることはもちろんだけど、
実は人間の性(さが)に根付くものなんだという、
もっと大きな哀しみだった、救われない想いだ。

《ひまわり》には興味深いコントラストが示唆されている:

南部イタリア女性とロシア女性、
強くて弱くて可愛い女性たち。
官憲を騙す楽天具合とソビエトにもどる男の苦悩する横顔、
同じイタリア男の陽と陰。
避けては通れない、イタリアとソビエトに残る戦争の爪あと、
荒廃したミラノ駅とひまわり群生。
イタリア、ソビエトの庶民の顔、顔、顔・・・・・誰も優しい、哀しい。

人間とは厄介なもの、
「愛がなくても生きていける」と健気になるはしから、愛を求める。
いっそ、記憶などなくなれば人間は哀しくならないのだろうか?
せめて愛のメモリーだけでも。

三十数年前の感動が、同じ感動がこみ上げてきた。
名匠たちによる珠玉のシネマ。
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