普通の人々 (1980)

文字数 920文字

【シネマ表現には無限の可能性】 1981/4/1



家庭の崩壊をシリアスに描いた作品として高い評価を受けている。
父と子、母と子、夫婦の問題を特別な設定無しで、
日常のなかから切り取ってくる本シネマは、
現代アメリカ家庭がはらんでいる危機を啓するという点では
《クレイマークレイマー》と似ている。
ところで、シネマを鑑賞するのは、何も哲学や真理を追究するのでもなく、
社会現象の善悪を論ずることでもない。
あくまで、映像を愛で、俳優の演技に感じ入ることが僕のスタイルだ。

その意味で、余談であるが、
前述の《クレイマークレイマー》は子供をダシにした一種のトピックス作品だった。
さて、
本シネマのような正攻法シリアスドラマは、
巨匠と称せられる監督のくせある演出で、舞台劇の様相を呈する場合がある。
そう考えたとき、本シネマの「シネマらしい成功」は、
ひとえに新人ロバート・レッドフォード監督の力によるものである。
これほどまでにシリアスなテーマを扱いながら映像はさわやか、新鮮さに満ちている。

ここで、視覚と思考力のどちらがシネマ鑑賞の際優位に立つか?
という問題にも関わってくるが、少なくとも本シネマでは、
この二つの能力は気持ちよく調和されるよう演出上でバランスが計られている。
レッドフォードの力量についてはいろんな評価があろうが、
ここにみえたシネマ調和力は特筆できる。

ドナルド・サザーランドはじめメリー・タイラー・ムーア、ティモシー・ハットン等の
個性派演技陣は想像以上の出来だった。
監督は、極論すればスタッフ、キャストのまとめ役だとしたとき、
《普通の人々》チームの理想的まとまりは、レッドフォードの功績に他ならないと推察できる。

テーマである「家庭崩壊」は、今更特に珍しいことでもない、
まさに「普通」の出来事だ。
このような悲劇の中から一人の青年が逞しく成長する過程、
悲しみの中に希望を感じさせるのがシネマの使命ではないか。

レッドフォードの細かい気配りがうれしい:
オープニング、イリノイナンバーをカメラに捉え、
シネマの社会的状況をワンショットで説明した。
父親の職業が何気ない会話で明らかになる。
シネマ表現は、無限の可能性に満ちていることを
レッドフォードは、普通に見せてくれた。

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