蜜蜂と遠雷 (2019)

文字数 1,101文字

【「音楽を文字に」から「文字を映像に」へ】 2019/10/7



本シネマの原作者コメント(宣伝ではあるが)
・・・「映像化は無理だと思っていました、参りました」。
いいえ、恩田さんこそ不可能な試みをまんまと成功させまていました。

その原作は、あくどいほどに読者を感動させるテクニックが網羅され、
その完成度が高いため、わかっていても抵抗することができない。
音楽の神からの天賦が3人の若者に降り注ぎ、ピアノコンクールでその才能を羽ばたかせることに集中する恩田さん。
そこには、醜い争いや政治的な駆け引きや卑屈な感情は一切描かれない、
音楽に魅入られた善き人ばかりが登場する。
このピアノコンクールでのピアノ演奏の描写が小説のほとんど、
場面転換の妙など小細工もなかった。
ピアノ演奏描写に対する危惧は、演奏曲を文字で表現するという高難度な試みを前にして
吹き飛んでしまった
それも3人の若者の心内が、プロコフィエフ、バルトーク、ブラームス、ショパン、リストの
名曲と化学反応していく様が文字化されていく。
この小説作法には、間違いなく恩田さんご自身のピアノ曲への想いが込められている、
作家として腕の見せ所だった。

少し原作のお話に寄り道してしまったが、
直木賞と本屋大賞ダブル受賞原作への敬意を表すべきだと思ったまで。

さて、シネマの話をしよう。
音楽ネタの映像化は、特に楽器(今回はピアノ)の演奏演技がキーになる。
当然、俳優さんは世界的演奏者なんかではないから、吹き替えやらエアー演奏やら遠景でぼんやりといったカバーが必須だ。
特に本シネマのような天才奏者を扱うとなるとその処理は困難なはずだったが、
幸いにもこちらが恥ずかしくなるような嘘くささはなかった。
俳優が演じているのだから、そのくらい大目に見てよ‥という甘えもなった。
その点で本シネマは第一関門をパスしていた。

本作の勝因は何といっても脚本、それも再構成の類まれなレベルの高さだった。
三人の天才と一人の努力家に物語を集中させ、なおかつヒロインのトラウマに踏み込んでいく。
これをしてオーソドックスということもできない、
このオーソドックスこそが原作の輝くメソッドなのだから。
天才同士の交流、周りの音楽家全員が彼ら天才を愛おしく思いやる、
ハッピーな展開もありきたりすぎる。

しかし、
こんな典型的な「ハッピーエンディングシネマ」が今求められているとは言えないか?
毎日の生活を満喫することなく、その生活を続けることに疲弊してはいないか?
もし、そんな心の悩みがあるのなら、本シネマは一服の清涼剤になることは間違いない。

老婆心:
遠雷は複数回映像にあったが、蜜蜂は一匹飛んでただけ、蜜蜂はどこへ行った。
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