地獄の黙示録 (1979)

文字数 1,339文字

【壮大なるプライベートシネマ】 1980/4/30



日本公開2ヵ月後にようやく観ることができた。
コッポラの話題超大作ということで封切り時の熱狂はすさまじいものであったし、
マスコミがこれを煽ったものだから、一種 社会的騒動にさえなったものである。

最近の映画宣伝、パブリシティ活動の例に漏れず
公開前から作品の内容に関して過多に紹介されてきた。
僕はいつも苦々しく感じていたが、
今回ほど誤って紹介され、宣伝されたケースも稀であろう。

日本名タイトル《地獄の黙示録》もさることながら、
戦争スペクタクルとしてのみイメージ付けされてしまった。
確かに、現実問題として戦争映画には、人間の本能を刺激する快感があり、
これはこれで捨てがたい魅力なので、
プロモーション側がこれを利用しない方はなかっただろうと推測できる。

ここに決定的なギャップが生じたのであろう。

本シネマは、コッポラのワンマンフィルム、
私財を賭して創ったプライベートシネマである。
カーツはコッポラであり、ウィラードはコッポラなのである。

本シネマを難解だと評し退屈だと不満する人は、
この点をまったく理解していなかっただけであり、
不勉強だとか理解力不足などと責められるべきではない。

不運なことは 本シネマが大きな借財のもとに世に公開される運命だったことだ。
コッポラのプライベートフィルムに興味を持つ人に
見てもらえれば事足るという作品にとどまらなくなったことだ。

僕はといえば、
《ゴッドファーザーⅡ》の時点でコッポラの描く人間像に興味を引かれて以来、
そして本作の製作進捗を聞くたびに「ベトナム戦争の中の人間像」に期待をしていた。
あえて推論していたのは、ベトナムで戦ったアメリカ兵の本性をさらけ出し、
国家の偽善を描くのが本シネマ、
いや、コッポラのテーマだろう・・ということだった。

よく言われる、「前半は面白いが、後半はつまらない」という感想は
正解でもあり誤解でもある。
コッポラの主張、思いは前半部の展開を受けて後半部で明確に表現されている。
コッポラのプライベート見解に皆が賛同するわけではない。

それは、ベトナム戦争や兵士たちのレベルを超えた人間の本性への問いかけである。
「キルゴアは殺人者ではなく、なぜカーツだけが罪を問われるのか?」
というウィラードのモノローグに言い尽くされている。  
単純ではないか!
ワルキューレを流しながらベトナム人を急襲するキルゴアと、
自分の意のままに首を狩るジャングルのカーツ。
二人とも人間なのである。
殺人に正当性を与える戦争の罪深さが見えてくる。

このシンプルなテーマを、
堂々と70mm大画面の中で、
あたかもブロードウェイ舞台劇のようにみせつけるコッポラに、
ただただ驚くばかりだった。

一方で、東洋人への無理解という批判があるが
これは感情的な批判でしかない。
戦争で人を殺さなければいけないとすれば、
(これは想像だが)一種の蔑視思想がなければできるものではないだろう。

コッポラが変に東洋人理解を示さなかったのは幸いであるとさえ思う。
逆説的になるが、いかに異文化への理解が大切であることの証になっている。
結局戦争の罪はここにある。

長い長いシネマ、
シーンごとに批判もあるが、
ここはコッポラの壮大なプライベートシネマとして承るのみだ。
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