華麗なるギャツビー (2012)

文字数 736文字

【男臭いギャツビーも悪くない】 2013/6/16



忘れたころの「グレイト ギャツビー」、再び。
何がきっかけでリメイクになったのか不明だけど、
リアルタイムで2作品目も観ることができたことを喜んでいる。
そして、
「ローバート・レッドフォード vs レオナルド・デカプリオ」
をどうしても意識してしまう、まぁ仕方ないけど。

時代を代表するハンサムスターでなければ「ギャツビー」を演じる資格がない
…そんなとこが製作コンセプトなのかも?

その意味から見れば、デカプリオは最近の汚れ役イメージを拭い去って
颯爽たるギャッツビー振りであった。
その内側には、成り上がり者の秘めたる劣等感が沸々と煮えたぎる
男臭さも合わせて漂わせてくれた。
本当に上手な俳優なんだと今更ながらスクリーンに引き込まれてしまった。

シネマの可能性は限りない。
レッドフォード・ギャツビーはあまりにもセンチメンタルで、
アメリカの空虚な繁栄と人生の皮肉が哀しく余韻調和していた記憶がある。
このたびのデカプリオ・ギャツビーは、
一人の青年の強烈な上昇志向と一途な愛が全編を貫き、
ベースにあるはずの「哀愁」が抑え込まれてしまった。
シネマはどんなスタイルにも変身する。

CG使用によるダイナミックな遠景シーンは今風なのだけど、
青い明かりに身を焦がし心を鼓舞するギャツビーの精神から逆行していた。
パーティーの騒然、高級車の疾走、眼鏡のアドボード
・・・これらもギャツビーの内面の苦しみから遊離してしまった。
それは決して間違いではない。
哀愁と悔恨、悲劇と裏切りだけのシネマは到底「華麗」には徹しきれない。

デカプリオ・ギャツビーはこの作品の中で十分に主張した、
生きることってこんなものさ・・・と。
やっぱり、レオ様はハンサムだけど「男っぽい」のだった。

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