多十郎殉愛記 (2019) 

文字数 807文字

【ノスタルジア いくぶん過剰】 2019/4/18



近年 時代劇が様変わりしていることは十分に承知している。
「椿三十郎」以来 殺陣のリアル感覚はVFXの進歩にもエイドされ究極になったかもしれない。
その究極のリアリズム…というのが曲者で
実際に真剣で人を切り倒す場面など見たことがない僕には、
その映像は あくまでも感覚の想像の結果でしかない。
もっとも、シネマの愉しさはそんな見る側の勝手な欲望を満たしてくれるものでもある。

本シネマのコンセプトは「殺陣の魅力」だとのこと。
シネマ冒頭に「伊藤大輔監督の霊に捧げる」との言葉がある。
ようやく、本シネマは中島監督の切なる想いが込められた
「チャンバラ時代劇」ではないかと推察する。

その剣戟シネマらしさは、しかしながら後半の多十郎対見回り組との対決までお預けとなった。
そこに至るまで、これは時代劇コント集か? と疑うような展開だった。
今まで何度も繰り返し見てきた、時代劇のカットが再現される、
佐幕派浪人の密会に乱入する京都町奉行の捕り方達、
長屋で世を拗ねる剣の使い手の脱藩浪人、
その浪人を慕う訳ありの居酒屋のおかみ、
幕末京都の街並み、神社仏閣、竹林・・・これぞ ザッツ・ジダイゲキ、
嫌味ですらあった。

このわざとらしい時代劇のアピールが胃にもたれたまま、
また主人公が窮地に至る説明もなおざりのまま、
当然のことのようにクライマックスの「剣戟」に移る。

大勢の捕り方に囲まれながら一人奮闘する主人公 多十郎。
古き、良き、懐かしいチャンバラが戻ってきた。
前半のリアルな剣から一転した様式美、
ひとり対多数の死闘は、坂東妻三郎「雄呂血」の記憶を呼び起こされた。

愛する女、希望を託した弟、怪しい坊主と女、
一癖ありそうな興味深いエピソードがことごとく尻切れトンボのままだったのも、
この「殺陣」最優先のためだったのか。

時代劇の伝統を継承すること、在りし日の輝きを取り戻すことは 
そうそう簡単ではない。
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