マリア・ブラウンの結婚 (1979)

文字数 1,515文字

【ドイツ復興の軋み】 1980/2/20



20年ものあいだ、西ドイツシネマは日本で公開されなかった。
輸入されるほどの作品すら作られなかったのがその理由だと聞く。
考えれば不思議なことである。
ドイツの国民性を想像すれば明確な主張を持った映画芸術があってしかるべきなのに、お隣のヌーベル・ヴァーグ、ネオ・レアリズモに並ぶべくジャンルがすっぽりと欠落していることに気づかなかった。

ところが70年代になって、ようやくノイエン・ヴェレン(ニュー・ジャーマン・シネマ)の胎動を噂に聞いていた。遂に巨人が動き出した、一種のおののきさえ覚える。

ニュージャーマンシネマの旗手、鬼才といわれるライナー・ウェルナー・ファスビンダーの最新作は今までのヨーロッパ、アメリカ映画にはない一風くせのある味わいを見せてくれる。
それは決して不快ではなく、単に珍しいだけのものでもなかった。
西ドイツ戦後史を生き抜いた一女性マリア・ブラウンを描くことそのものが西ドイツの戦後を語る・・・と言ってしまうと、何の変哲もない女性と社会の関係説明調になるが、そこにはファスビンダーのメッセージが強烈に、いやどちらかというと露骨に仕組まれていた。
僕はこのような露骨は必然性がある場合は歓迎する立場だが、ファスビンダーの世界は教宣的なメッセージ一色ではない。
題材そのものはメロドラマ、料理法によってはシドニー・シェルダンの大ロマンスにもなりうる。2日間だけの結婚生活に自分の生存をかけた女の半生・・・これだけで大メロドラマでなくてなんであろう?
だが、ファスビンダーはマリアを決してヒロインにはしない。
夫との生活に希望と生命を託しながらも、「心と肉体は別」であると朗らかに宣言するマリア。
マリアの生理を理解できないわけではないが、大きなテーマである「心と肉体」が、こうもアッサリと片付けられてしまう。
ファスビンダーはマリアの世界を通じて、人間が身に付けた仮面をはがし、本性をさらけだしてみせる。この「あっけらかん」、観客は自分自身をそこに見つけたとき滑稽に思う、あとは笑うしかない。

■マリアと黒人兵がベッドに同衾しているシーン右隅に夫へルマンらしき貧相な男が入ってくるが、そのままの状態でぼんやりしている。
■裁判のシーンでは通訳がマリアの意見をいい加減な調子で翻訳している。
■ラストシーンにおいても、戻ってきた夫は腹をすかしたまま、サッカーのTV中継に見いっていた。
結局マリアは結婚生活2日目以降を続けることなく、悲しい結末を迎えるのである・・・滑稽なほど悲しい人生だ。
マリアの待ち望んだ生活が実現したとき、僕はおおいに失望してしまった。
マリアが長い間(不思議なことに時間経過が故意に不明になっている)苦労して築いた夫婦生活は、どう見てもバラ色には見えなかった。
それでも、ようやくマリアも自分の人生、本当の人生が歩めるものと思った瞬間、カタストロフィーが訪れる。
観るものにとってもカタストロフィーだった・・・これじゃ、結局何にも残らないではないか?
人間の悪性を見た不快さがあったとはいえ,夫への精神的愛情を貫いたマリアを讃える気持ちがわきあがったところでの逆転の衝撃だった。

しかしながら、このふたりの死で、マリアの人生が無になったと思うことなどは誰にもできない。

追記:
愛人の死の夜、酒場で酔いしれるマリア、その傍らで愛欲に耽る男女、それにかぶさるアデナウアーの再軍備宣言。
歴代首相のネガ写真の中に、平和主義者ブラントが欠けているなど、随所に体制批判の姿勢もうかがえる。
戦後ドイツの復興とマリア・ブラウンの生き残り方・・・ダブルイメージで浮かび上がってきた。
ところでマリアは事故死?自殺?

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み