もう頬づえはつかない (1979)

文字数 1,454文字

【女優 桃井かおり】 1980/3/8



喜劇の雄、前田陽一と自主映画の星、東陽一の作品を
同じ小屋で見れるのは二番館ならではの特典だろう。
くわえて2作品とも桃井かおり主演というおまけつきである。
前田陽一(神様がくれた赤ん坊)のかおりと、山田洋次寅さんのかおりがぶつかるため、
前田版が一年間延期になった結果、
東陽一のかおりと並んだ皮肉に一人ニンマリしている。
当人の「かおり」は両陽一監督作品のなかで見事に役者の花を咲かせているのだから、
ダブルに皮肉なものである。
所詮寅さんのマドンナに納まる器ではなかったのだろう。

本作品は《サード》で数々の賞を獲得した東陽一監督の受賞後第一作であり、
ファン待望のシネマだった。
原作も見延典子のベストセラー、主演女優のオーディションも賑やか、
ATGとしても異例のパブリシティ攻勢があったりで、前評判は上々だった。
しかし、主演に桃井かおりが決定した時点で、僕はおおかたの興味を失ってしまった。
この心理は複雑である。

《サード》の新鮮な感動とは裏腹な興業的不振、報われなかった東監督への同情。
次回作こそ・・・との熱い期待を持っていた一年間だった。
ベストセラー原作はまだ許せるとしても、あの桃井かおり起用にはガッカリした。
つまるところ僕の中では、東作品と桃井かおりは、
決して相受け入れられないものだとの思い込みがあった。
決して根拠のない独りよがりではないと今でも思っている。

僕の「桃井かおり観」を述べると《不真面目》の一言である。
役者としての素質はともかく演技に対する姿勢(恐ろしい言葉だが)が曖昧だし、
シネマを愛する立場としては承服できない雰囲気があった。
そのうちに、
彼女の言葉遣い、表情などが社会的ファッションとして受け入れられるにいたり、
僕の抵抗も甲斐なく、桃井かおりとは彼女を無視することでかろうじて接点を保っていた。

一方彼女は日本人新種のごときイメージを相変らずメディアで振りまいていた。
そんなことで、とても東監督の新作を見る勇気がでなかった。
シネマファンの気持ちは、しかし、単純なもの、
前田陽一(神様の・・・)のかおりはすごいらしいと聞くともう落ち着かない。
まずは《神様の・・・》のかおりをチェックしてみようと思ったのは当然のことだが、
セットで《もう頬杖・・・》まで観ることができたのは
ただただラッキーとしかいいようがなかった。

《神様の・・・》で全く別人のような桃井かおり、
本物の役者に出会って間をおかず、本作のマリ子に会った。
ここでも東陽一監督の桃井かおりに驚かされた。
彼女は作品のなかにポンと放り出されている。
もしかしたら演技プランなんて打ち合わせてすらないように思われる。
事前に東監督から「KEIKO」を観ておくようにとの指示だけはあったそうだが、
そのあたり監督の意図が想像できる。
つまり、このシネマでかおりは初めてマリ子になりきろうと努力している。
その限界点として「KEIKO」があらかじめ示されていたのではないだろうか?

そうでなければ、あれほどマリ子役にほれ込んでいたかおりは
その分演技が臭くなるだろうし、
本来のかおりの演技は素のままであったことを計算した東監督は、
かおりから本物の演技を引き出そうとした。
東監督の勝ちだった。

桃井かおりではない現代女子大生マリ子がスクリーンに息づいていた。
それは当然桃井かおり本人の素顔ではなく、
といって計算しつくされた虚構の人間でもなかった。

大学時代にある、特別どうということのない愛のスケッチは、
桃井かおりという女優と東陽一監督によって、
僕の感性にしっかりと描かれた。
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