フライ,ダディ,フライ (2005)
文字数 780文字
【「精神の自由」を失ってはいないだろうか?】 2007/9/1
たまたま今日9月1日に、本シネマを観たのも何かの因縁だったんだろうな。
シネマのクライマックス、最愛娘のあだ討ち決戦が9月1日。
このDデイに向けて、平凡サラリーマン父親(堤)が「体」と「心」を再生していく過程がシネマの荒筋だ。
そう肝心なのは、単にけんかに強くなるためにスンシン(岡田)に弟子入りするのではない点だ。
ただし、シネマはコメディ重装備になっている。
暴力に歯向かえない一般市民の恐怖心、
家族を守れない屈辱、
そんな自分をごまかそうとする自己欺瞞と自己嫌悪、
小市民的悲劇のスパイラルを内包した怖い設定だからこそ、
毒はそっと笑いの中に隠しこまれていた。
そこから、
単純に、痛快あだ討ちお伽噺とうけとってもいいだろうし、
もう少し突き詰めて、「精神の自由」に思いを馳せるのも決して大げさではない。
スンシンが踊る《勝利の鷹の舞》が象徴するこの「精神の自由」を僕らは失ってはいないだろうか?・・・・・と。
スンシンに語らせている;
「恐怖の先になにが見える?」
「勝利の先になにが見える?」
現代人のどれほどが、この解答を持って生きているのだろう。
原作者が脚本まで手に染める罪を告発し続けてきた僕だが、常に例外があることも知っている、本作がそうだ。
原作者はシネマに詳しい・・のだろう。
原作がコンセプトあるいはシノプシスであり、シネマが完成稿のような印象だった。
ところでふたりの男優が素晴らしい;
堤さんはサブ監督作品に輝いていた彼の原点「ひたむき」を再現させてくれた・・・。
いやすっかり忘れていた彼の走り、なにしろ走る走る・・。
岡田さんは、美形の影が悩ましいつわものをシリアスに演じ、ひとりコメディ領域に近づかなかった、完璧。
ふたりが樹の上で見せてくれた師弟、男同士、父息子のニュアンス、この名シーンを忘れないだろう。
たまたま今日9月1日に、本シネマを観たのも何かの因縁だったんだろうな。
シネマのクライマックス、最愛娘のあだ討ち決戦が9月1日。
このDデイに向けて、平凡サラリーマン父親(堤)が「体」と「心」を再生していく過程がシネマの荒筋だ。
そう肝心なのは、単にけんかに強くなるためにスンシン(岡田)に弟子入りするのではない点だ。
ただし、シネマはコメディ重装備になっている。
暴力に歯向かえない一般市民の恐怖心、
家族を守れない屈辱、
そんな自分をごまかそうとする自己欺瞞と自己嫌悪、
小市民的悲劇のスパイラルを内包した怖い設定だからこそ、
毒はそっと笑いの中に隠しこまれていた。
そこから、
単純に、痛快あだ討ちお伽噺とうけとってもいいだろうし、
もう少し突き詰めて、「精神の自由」に思いを馳せるのも決して大げさではない。
スンシンが踊る《勝利の鷹の舞》が象徴するこの「精神の自由」を僕らは失ってはいないだろうか?・・・・・と。
スンシンに語らせている;
「恐怖の先になにが見える?」
「勝利の先になにが見える?」
現代人のどれほどが、この解答を持って生きているのだろう。
原作者が脚本まで手に染める罪を告発し続けてきた僕だが、常に例外があることも知っている、本作がそうだ。
原作者はシネマに詳しい・・のだろう。
原作がコンセプトあるいはシノプシスであり、シネマが完成稿のような印象だった。
ところでふたりの男優が素晴らしい;
堤さんはサブ監督作品に輝いていた彼の原点「ひたむき」を再現させてくれた・・・。
いやすっかり忘れていた彼の走り、なにしろ走る走る・・。
岡田さんは、美形の影が悩ましいつわものをシリアスに演じ、ひとりコメディ領域に近づかなかった、完璧。
ふたりが樹の上で見せてくれた師弟、男同士、父息子のニュアンス、この名シーンを忘れないだろう。