25時 (2002) 

文字数 665文字

【澄まされていく】 2007/7/3



全編を通じて俳優諸氏が思いの丈いっぱいに演じている、気持ちよく演じてると感じた。
それはすなわち、シネマの格調に結びつく。
全編を通じて伝わってきたのは「裸にされた感情」。
25時間という極限のなかでの、
男たちの友情、男女の愛情、父と子の愛情、が澄まされていく。
感情が蒸留、抽出、分析されるのではなく、
ただただ「澄まされていく」。

麻薬のディーラーになった親友に、どうして今まで一言「やめろ」と忠告できなかったのか!
最後の最後、ようやく親友の置かれた窮地に気づく・・・「あいつの人生は終わった!」
裏切られたと思っている恋人にも冷たい視線を這わせるだけ、その愛はそれほど深いのに。
息子を刑務所に行かせたくない・・・「逃げてもいいんだよ」と説得しきれないもどかしさ。

主人公モンティ(エドワード・ノートン)が7年間の刑期を前にした残り25時間、
流れ行く時間に交錯するモンティを巡る感情。
幼馴染の親友(バリー・ペッパー、フィリップ・シーモア・ホフマン)と過ごす
最後のクラブナイトシーンは、スパイク・リーの計算されつくした仕上がりになっている。
音楽、ダンスはクールすぎてモンティの悲劇にそぐわない、悲しい。
モンティを嘆く、励ます、絶望する言葉、
会話も結局はむなしい、なんの救いももたらさない。
どんなに愛していても、気遣っても、人を救うことはできない。
父親の妄想がまだ現実的だった・・・「逃げろ」。

誰もがモンティの人生は終わったと断定したとき、僕は彼の再生を信じた。
言葉なんかではなく、このシネマがそう語っている。
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