疑惑のチャンピオン (2015)

文字数 880文字

【ドーピングを禁止できないとすれば・・・】 2016/7/4



本シネマはアームストロングの栄光と汚辱の伝記ではない。
そうなんだ、
アームストロングが癌を克服してツール・ド・フランス7連覇(あとからすべて取り消しになったが)というヒーローを描くものではない。
オリジナルタイトル「プログラム」が意味するのは,スポーツ史の中で最も優れたドーピングシステムのことだ。

アームストロングその人に期待すると大きな肩透かしを食らうことになる。
劇場にはそのままんまバイクウェアの観客も目にしたが、アームストロングのファンのひとりなのだろう、きっと。
僕も彼がトライアスロン出身というシンパシーをずっと持ち続けていたものだから、できれば彼の心の深層を覗いてみたいと気持ちも十分理解できる。

でも、本シネマはアスリートが「ドーピング」に頼る気持ちを真正面から受け止め語りつくす。
伝記でもなければ、ドーピングという魔物に嵌まったヒーロの悲劇ですらない。
アームストロングは、自ら決意してドーピングを採用する、ツール・ド・フランスで勝利するために。そこには一点の迷いもなかった。
微かなる言い訳として、との選手もみんなドーピングしているから自分も強くなるため・・・。
そして7連覇ヒーローの礎にはチーム全員のドーピングが日常として実施されていた。
「プログラム スタート」
「BARは開店だ」
といってチームメイトに薬物を配布するアームストロング。

プロアスリートにとって一番重要なのは「勝利への意思」、「強い想い」だとするアームストロング。そんな想いにドーピングの倫理など通用するわけもない。

今ちょうどリオオリンピックでの、ロシア陸上界のドーピングに対する制裁が話題になっている。
チェックを潜り抜けるドーピングテクニックとアスリートの勝利への欲望がある限り、「プログラム」は形を変えて永遠に存在するだろう。
アスリートの活躍は、観客である僕らの支持があってのこと。
ドーピングを無くすることができない現状を受け入れる時、僕はスポーツに何を求めるのだろうか?
本当にドーピングはアスリートにとって罪悪なのだろうか?
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