私の男 (2013)

文字数 1,698文字

【桜庭ワールドを映像で感じて・・・】 2014/6/18



いつも、シネマと原作の間には、高い尾根や深い谷があることを強調してきた。
そう、文字と映像とは別の次元の生き物である。

ただ、僕自身が強度のカズキストであることが今回は問題となった。
本シネマを観る前に原作を読み返してみた。
その時のブックレビューを次に引用する、シネマレビューにとっての御法度ではあるが、
引用の後にシネマの感想も述べておく。
先に結論を言うと、ナイスなシネマ化だった。

------引用-------
映画化された。
映画を観る前に再読してみようと思った。
その真意は「このとてつもない作品は決して映像では表現できない」と確信するためだった。
桜庭ワールドが大好きだ、ゴシック系以外の作品(刊行されたもの)はすべて手にしてみた。
日本人の「家族の肖像」を扱わせたら、
それも「女」の肖像を描かせたらダントツの特異性を発揮する。
もっとも彼女が描く人物はほぼ「女」であるが・・・。
本作は2008年直木賞受賞作だ。
それまでどちらかというと、少女向けジョブナイル傾向の作風が一変して
「代表的名作」に変幻した。
名作は常に書き出しが優れている・・・・・
『私の男は、盗んだ傘をゆっくりと広げながら、こちらに歩いてきた』
このセンテンスに僕は魅惑され、あとは一気に読み進まされてしまう。
そして構成がこれも意図的に功奏している。
6章に区切られているが、時間軸は逆に進む。
各章は一人称で書かれていて、
3章が主人公の花、
残りを重要登場人物、花の結婚相手美朗、
花の義父であり「私の男」である淳吾、
淳吾の恋人だった小町が担当する。
なによりも強烈なのは「父と娘の愛欲生活」描写だった。
「禁断の愛」といえば意味不明に近いものになるが、
桜庭はこの詳細を執拗に書き加えて僕を戸惑わせてくれる。
1章から物語は過去にさかのぼっていく。
「私の男」と誇らしげに言い切る花が6章で見せる子供の表情、
ここに至る愛の昇華にちょっぴりの事件も色を添える。
ただただ、異常愛の物語ではなくミステリーの要素を各所に振り置いている、
これこそが桜庭ワールドの真骨頂であろう。
異常愛と言ってしまったが、
僕はやはり「家族の肖像」、そして「女」の素直な生き方が優勢だったように感じた。
無論「男」もいての愛憎物語であるが、男はいつも脇役なのだ、桜庭ワールドでは。

強烈な文章満載ではある、たとえば次のようなものも素敵だ:
『夜の間だけ、こっそりと大人になったような気持ちだった。
大人だけど、人間じゃなかった。わたしは淳吾の、娘で、母で、
血のつまった袋だった。娘は、人形だ。父のからだの前でむきだしに開いて、
なにもかも飲みこむ、真っ赤な命の穴だー。』
さて、こんな奥深いエッセンスをどうやって映像に移し替えれるのか。
-----引用終わり------

さて、シネマの感想である。
見事な脚色だ、桜庭ワールドに忠実であり、
忠実のあまり蛇足ともいえるエンディングを設定してくれる。
シネマでは時間は自然に流れる、これは仕方がない。
しかし時折、過去・未来へずれ込む映像は桜庭オリジナルへの敬意なのだろう。
最初に懸念した、淳吾のキャスティングも役者の力量で杞憂だった・・・と思うことにした。
作品の中で特に印象的であった「文章」もしっかりと映像になって息づいていた。
「私の男が傘を盗んで歩いてくる」シーン、親子の「血」のイマジネーションシーンは、
フィクションタッチを敢えて切り捨て、
シネマのテーマを強調した夢幻タッチだった。
思いがけなかったのは、壮大で凶悪な流氷シーン、
殺意が芽生えるのも自然のように思えた。
原作の奥深いニュアンスは俳優に委ねてしまい、
このような自然の暴力を映像表現したことに虚を突かれたが、
見事二人の生き様にマッチしていた。

その俳優の力だが、ここは二階堂さんに尽きるだろう。
シネマに生きる「花」を現実に感じてしまうほど、とても難しい人物を再現してくれた。
「蛇足」と前述してしまったエンディングだが、
花と淳吾の脚の絡みが見事にすべてを物語っていたことは間違いない。
どっちにしても、淳吾に「お前じゃ無理だ!」と言われるだろうな。

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