帰らざる日々 (1978)
文字数 825文字
【青春シネマに新感覚】 1979/7/24
まったく迂闊であった。
昨年度キネマ旬報脚本賞作品と知りながら見逃したままになっていた。
今後も敏八さんには充分気をつけなければいけない、
こんな力強い青春シネマを創る敏八さんだとすれば。
誤解を承知で言えば「日本版アメリカン・グラフィティー」であろう。
僕が日本人であるが故、本シネマへの共感は当然本家版より強烈だった。
その理由はやはり脚本。
中岡京平のオリジナルに敏八さんが手を加えたと聞くが、完全なものになっている。
主人公の永島敏行、
「サード」のイメージをどれほど感じさせないか・・・で注目したが、
気にはならなかった。
俳優としての運の強さ(?)を、また感じる。
永島敏行は、僕らの青春を再現してくれた。
観客の体験をなぞるようなイメージを展開するシネマほど、
「つぼにはまった嬉しさ」を感じるものはない。
高校時代の親友との死による別れ、
憧れの年上女性との悲しい思い出、
ひょんなことから生じる元同級生とのFirst Love
土地のやくざとの交流、
それらすべてを包んでくれた高校生活。
これらすべてが観客の体験と一致するとは思えないが、
誰もが夢見たり、夢と現実のはざ間で悩んだことはあるはずだ。
「サード」は異常な環境のなかの青春だったが、
本作は何の飾りもない普通の青春である。
おなじ青春に違いはないが、こちらの方がかえって新鮮で力強く思えるのも、
やはり共有感覚のせいか。
「アメリカングラフィティー」に例えるのは、この点である。
シネマの最後は「親友の死」という日本的な幕切れになるが、
これまたしかたないところだ。
ただそこには、ジメジメした「友情」と「愛」と「死」の図式はない。
全編を通じて主人公の骨太い生き方が表現され、
いままで邦画が持ち得なかったユーモアに満ちた新しい感覚のシネマとなった。
列車の出発とともに過去への回想が始まるありきたりの手法が、
これほど強力に効果を出し得たのも、
そんな内容の凝縮があったればこそ。
満足。
まったく迂闊であった。
昨年度キネマ旬報脚本賞作品と知りながら見逃したままになっていた。
今後も敏八さんには充分気をつけなければいけない、
こんな力強い青春シネマを創る敏八さんだとすれば。
誤解を承知で言えば「日本版アメリカン・グラフィティー」であろう。
僕が日本人であるが故、本シネマへの共感は当然本家版より強烈だった。
その理由はやはり脚本。
中岡京平のオリジナルに敏八さんが手を加えたと聞くが、完全なものになっている。
主人公の永島敏行、
「サード」のイメージをどれほど感じさせないか・・・で注目したが、
気にはならなかった。
俳優としての運の強さ(?)を、また感じる。
永島敏行は、僕らの青春を再現してくれた。
観客の体験をなぞるようなイメージを展開するシネマほど、
「つぼにはまった嬉しさ」を感じるものはない。
高校時代の親友との死による別れ、
憧れの年上女性との悲しい思い出、
ひょんなことから生じる元同級生とのFirst Love
土地のやくざとの交流、
それらすべてを包んでくれた高校生活。
これらすべてが観客の体験と一致するとは思えないが、
誰もが夢見たり、夢と現実のはざ間で悩んだことはあるはずだ。
「サード」は異常な環境のなかの青春だったが、
本作は何の飾りもない普通の青春である。
おなじ青春に違いはないが、こちらの方がかえって新鮮で力強く思えるのも、
やはり共有感覚のせいか。
「アメリカングラフィティー」に例えるのは、この点である。
シネマの最後は「親友の死」という日本的な幕切れになるが、
これまたしかたないところだ。
ただそこには、ジメジメした「友情」と「愛」と「死」の図式はない。
全編を通じて主人公の骨太い生き方が表現され、
いままで邦画が持ち得なかったユーモアに満ちた新しい感覚のシネマとなった。
列車の出発とともに過去への回想が始まるありきたりの手法が、
これほど強力に効果を出し得たのも、
そんな内容の凝縮があったればこそ。
満足。