スローなブギにしてくれ (1981)

文字数 952文字

【そのくらい彼女は素晴らしい。】 1981/5/23



僕にとって、《青春映画の巨匠、藤田敏八》のイメージは強い、強すぎるのかもしれない。
彼が描く中年男(あまり女性は登場しない)たちもその青春を引きずって生きている。
その意味でも、やはり青春映画のパキさんというべきなのだろう。
歌の文句じゃないけれど、青春時代の真ん中でその青春の意味が理解できるはずもない。
パキさん描く中年男の寂しさ、哀れさは全て青春を生きる若者との対比、もしくは青春の終了を意識した若者の視点から見えてくるもの・・・とはいえないか?

本シネマには、この種の中年や若者がゴロゴロ登場する。
個人的印象に過ぎないが、さち乃(浅野温子ちゃん)やゴロー(古尾谷雅人)が最後に青春卒になっているところをみると、このシネマ、若者が登場しているようにみえながら、オジンばかりの「人生こうなるのだ編」みたいな、なんともやるせない雰囲気に溢れている。

「帰らざる日々」にあった、青春ギラギラの輝きはここにはまるでない。

極端な見方をすれば、さち乃やゴローは、あのムスタング(山崎努)、マスター(室田日出男)に最初からコントロールされっぱなしだったのではないか?
さち乃の復讐をするゴローの無鉄砲はマスターのたくらみではなかったか?
そもそも、さち乃とゴロー出逢い自体が、ムスタングの気まぐれからか?
ともすれば偏に浅野温子に肩入れしがちだが、今作品は中年ムスタングの生き方の物語である。

青春が男性の特権だと断言するほどのセクシストではないが、青春の字面には「男」が似合う。
青春を引きずってきた中年男の、本当の「青春との訣別」を本シネマから嗅ぎ取った。

青春には「男」が似合うという仮説を推し進めると、男にとっては女性との過ごし方が青春に繋がる。仮説の中とはいえ、ムスタングがさち乃に逃げられたのはひとつの時代の終焉なのだろう。

同じように、お腹の大きくなったさち乃と生きるゴローの青春も、ひとつの区切りを迎えた。
それでは、さち乃の青春とは何だったのか?
パキさんはいつも女性の青春には手をつけずにいてくれるが、観る側としてはもっとも気になるところである。

本シネマ、浅野温子の魅力に眼を奪われてばかりでいると、肝心なポイント、彼女の青春を見失う。だが、そのくらい彼女は素晴らしい。
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