天国の口、終りの楽園。 (2001)

文字数 967文字

【キュアベッキ・ツアー】 2007/5/14



キュアロン(監督、脚本)、ルベッキ(撮影)を辿って、本作品に到達する。
これを「キュアベッキ・ツアー」と称している(勝手に言ってるだけだが)。

さて本シネマは;
映画歴史のなかでも繰り返しテーマとなってきた「思春期少年の性衝動と年上女性」。
キュベッキア・ツアーも、いつか来た道に入り込んでしまうのだろうか?それとも・・・?
興味津々だった。
キュベッキアツアーのお楽しみである映像に関しては、期待通りの凝り心地が随所に見て取れる。お決まりのガールフレンド相手や肝心の年上女性とのラブシーン、ベッドシーンは21世紀らしくリアリズムを直截的に差し出してくれる、ドスンと音がするような感じがするが、これはさほど嫌味はない。
鏡や映り込みを利用した複数の感情表現にはキュベッキアのこだわりを感じて、安心したものだ。
ロード・ムーヴィーならではのメキシコの田舎町の匂い立つ悲惨さは美しいビーチであるはずの《天国の口》にまで漂っていて、本シネマが単純な青春挫折ストーリーでないことを示唆していた。

青春時代に犯してしまう過ちのひとつに、「素直になりすぎての気まずさ」がある。
親友だと思っていた二人の若者が酒とドラッグで真実を交換しあい傷ついてしまう。
「類は類を呼ぶ」の例えどおり、相手にだけ正義を要求することなんて所詮ないものねだりに過ぎないことを人は、どこかで気づかなければならない。
親友が、それぞれの階級社会の日常に戻っていく秋は物悲しいが大いなる現実であった。

本来、儲け役ではないかと想像できる「少年を仕込んでいく年上女性ルイザ」。
「人生は波に任せていきなさい」などと訓話らしき言葉さえ残しながら、なぜか彼らの永遠の女性にはならない。彼女が不治の病に犯されていたとことが明らかになるエピローグ的最後のシーンから見えてくるのは:

もしかして、ルイザには彼ら二人に対して愛情なんてなかったのではないか?
あんなに忍び泣きしていたのは、夫との別れではなく、自らの消失を哀しんでいたのだったのか?
若者に残していったのは愛情溢れる年上女性の温もりではなく、命の最後を燃やし尽くそうとする諦めの混じった祈りだったのか?

そこに「永遠のルイザ」になれない理由があった。
人生は、全ての若者に「永遠の女性」を用意してくれるわけではない。
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