華麗なるギャツビー (1974)

文字数 1,001文字

【感謝します、村上春樹さん】 2007/1/6



まずは村上春樹に感謝しなければ。
彼の翻訳「グレート・ギャツビー」が昨年11月に刊行されなければ、
原作に触れなかったろうし、本シネマを観直すきっかけもなかったからだ。
無論このシネマは観ている。
《華麗なるギャツビー》というタイトル、ロバート・レッドフォード主演作、
の記憶は決して消えない。
その印象は、しかし、不可解の一言ではあったけど。

当時25歳頃の僕にとっては、ちょうど長男が産まれ、
日常生活にあまりにも密着していた時代だったからだろうか、
センチメンタルな感情に浸る余裕はなかったに違いない。
記憶は不確かだけど原作も当時読んでいないはずだ。
シネマの中のレッドフォードのファッションやライフスタイルがタイトルどおり、
華麗(?)だった反面、
あまりにも救いのない結末にストレスを溜め込んだ記憶がある。

そして今回、村上春樹の登場である。
村上春樹本人が作家として自分の原点であると明言する
「グレート・ギャツビー」その彼自身の渾身の翻訳が出されて、
これを無視することは僕にはできなかった。
そして村上春樹ワールド版「グレート・ギャツビー」に魅せられてしまった。

愛する人のために破天荒なパーティを開いて、
もしかして彼女が立ち寄ってくれることを期待する馬鹿なギャツビー。
彼女の屋敷の明かりを見つめて、想いを深める気弱なギャツビー。
彼女のため財産を築く間、彼女に会えない貧乏で純情なギャツビー。

一方の女性は「金持ちの女の子は、貧乏な男の子とは結婚できないの」と宣ふ。
その愛の一部始終を突き放すように第三者から見つめるこの小説は、
「人間の不条理をもてあそぶ天使」のごとく無邪気で残酷である。
この解釈が村上春樹のそれと同じかどうかは、今はたいした問題ではない。

僕はこの名作を、再びシネマで確認できた喜びでいっぱいだ。
それも一度は理解できなかったシネマをだ。
このシネマは見事に原作のテイストをそのまま再現していた。
原作とシネマの完成度に関しては通常は議論がたくさんあるところだが、
このケースに限ってはパーフェクトだ。
今回観直しすることができて、その完成度に気づくことができた。
シネマのほうが優れている。
脚本のフランシス・フォード・コッポラ(まだフォードがついていた頃のコッポラ)に、
その賞賛を贈るとともに、重ねて村上春樹に感謝する。

30年を経過しても、このシネマもまだグレートだった。
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