ニューヨーク・ニューヨーク (1977)
文字数 742文字
【スコセッシのお楽しみに付き合う】 1977/9/10
誰にも好きな俳優、監督がいるものだ。
彼らがセットで、いわゆる一家で作り上げたシネマは、
それはそれはファンには堪らなく愛おしいものになる。
マーティン・スコセッシ監督、ロバート・デ・ニーロ主演、
このコンビの、それも初ミュージカルとくれば、
ファンならずとも期待は大きく膨らんだ。
僕は《タクシードライバー》以来のふたりのファンだ。
実は、既にマスコミを通じて厳しい批評は聞いていたが、
そこはそれ、ファンとして見定めることも大切だ。
でも、観終わって、敢えて批評に反対する気持ちにはなれなかった。
スコセッシとデ・ニーロにライザ・ミネリがおまけで、この程度かい?
が妥当な感想だった。
しかし、これはミュージカルの楽しさを期待していての失望だから、
もっと異なる視点から見てみよう。
本シネマは、タイトルどおり、
1950年ごろのニューヨークの街の趣きがテーマとして演出されたのだと仮定しよう。
そうすると、音楽の位置づけが幾分低くなって、
歌い手ライザ・ミネリの存在が観客の意識下に入りずらいはずだ。
デ・ニーロはその逆で、音楽の流れと関連無く、
彼独自の美学で完璧な役作りを目指している。
スコセッシ自身の指揮はというと、
自分好みのスィング、ブルース、ジャズに傾注したため、
ますますライザの居場所が狭くなっってしまった・・・歌えば歌うほど空回りする。
まして、ライザとデ・ニーロの愛と別離は、必然性に裏づけされた展開であるから、
とうていニューヨークの華麗な街並みを凌駕する重みを持ちえなかった。
スコセッシが楽しみ、デ・ニーロが激演すればするほど
フォーカスがぼけていってしまったと思った。
スコセッシのお楽しみに付き合うのも今度が最後、同じ失望はもう勘弁して欲しい。
誰にも好きな俳優、監督がいるものだ。
彼らがセットで、いわゆる一家で作り上げたシネマは、
それはそれはファンには堪らなく愛おしいものになる。
マーティン・スコセッシ監督、ロバート・デ・ニーロ主演、
このコンビの、それも初ミュージカルとくれば、
ファンならずとも期待は大きく膨らんだ。
僕は《タクシードライバー》以来のふたりのファンだ。
実は、既にマスコミを通じて厳しい批評は聞いていたが、
そこはそれ、ファンとして見定めることも大切だ。
でも、観終わって、敢えて批評に反対する気持ちにはなれなかった。
スコセッシとデ・ニーロにライザ・ミネリがおまけで、この程度かい?
が妥当な感想だった。
しかし、これはミュージカルの楽しさを期待していての失望だから、
もっと異なる視点から見てみよう。
本シネマは、タイトルどおり、
1950年ごろのニューヨークの街の趣きがテーマとして演出されたのだと仮定しよう。
そうすると、音楽の位置づけが幾分低くなって、
歌い手ライザ・ミネリの存在が観客の意識下に入りずらいはずだ。
デ・ニーロはその逆で、音楽の流れと関連無く、
彼独自の美学で完璧な役作りを目指している。
スコセッシ自身の指揮はというと、
自分好みのスィング、ブルース、ジャズに傾注したため、
ますますライザの居場所が狭くなっってしまった・・・歌えば歌うほど空回りする。
まして、ライザとデ・ニーロの愛と別離は、必然性に裏づけされた展開であるから、
とうていニューヨークの華麗な街並みを凌駕する重みを持ちえなかった。
スコセッシが楽しみ、デ・ニーロが激演すればするほど
フォーカスがぼけていってしまったと思った。
スコセッシのお楽しみに付き合うのも今度が最後、同じ失望はもう勘弁して欲しい。