レイジング・ブル (1980)
文字数 737文字
【スコセッシ教授のシネマ論】 1981/2/21
マーティン・スコセッシはまさに異才。
彼の創りだす人物は一様に偏執タイプに属するが、
彼らは人間のプロトタイプ、象徴だという意味なのかと、
最近思い至ったのだ。
《レイジング・ブル》はその見地から、記念すべきシネマではないかと思う。
彼は本シネマを自らの代表作にしたかったのだろう。
だからこそ、唐突にも「カラーフィルム退色問題」を提起して、
本作をモノクロトーンで完成させたのだろう。
作品中唯一のカラー場面は8mmスナップフィルムのインサートだけであるが、
この場面が極めて不良なのも明らかに意図的である。
本シネマは後世に残すべく創られたスコセッシ・フィルムであり、
ジェイク・ラモッタの半生を描いた作品ではない。
ジェイク・ラモッタはデ・ニーロが扮する役柄、ただそれだけである。
スコセッシはデ・ニーロに演技の極限を要求した、そしてデ・ニーロは40kg増量した。
役のためとはいえ、それほど生易しいことではなく、その負担も大きかったろう。
しかし、これはスコセッシの演技論のサンプルなのだということで、
自らも偏執症気味のデ・ニーロが全面支援を提供し、歴史的シネマ完成に貢献している。
迫真のボクシングシーンとか、
太ったデ・ニーロなどの話題は強烈だったものの、
シネマ自体は正当なスタイルで創られている。
カットの積み重ねと俳優の演技を中心とした進行は、
モノクロ画面と相俟ってシネマの原点を想起させるほどだ。
高倉健さんのコメント
「何回も観たし、これからも観る」から想像できるように、完成度の高いシネマ、
そして創作過程においても優れているシネマなのだろう。
正直なところ、まるでスコセッシ教授の講義を受けたようで
この堅苦しさ、真面目さに、いささかうんざりした。
マーティン・スコセッシはまさに異才。
彼の創りだす人物は一様に偏執タイプに属するが、
彼らは人間のプロトタイプ、象徴だという意味なのかと、
最近思い至ったのだ。
《レイジング・ブル》はその見地から、記念すべきシネマではないかと思う。
彼は本シネマを自らの代表作にしたかったのだろう。
だからこそ、唐突にも「カラーフィルム退色問題」を提起して、
本作をモノクロトーンで完成させたのだろう。
作品中唯一のカラー場面は8mmスナップフィルムのインサートだけであるが、
この場面が極めて不良なのも明らかに意図的である。
本シネマは後世に残すべく創られたスコセッシ・フィルムであり、
ジェイク・ラモッタの半生を描いた作品ではない。
ジェイク・ラモッタはデ・ニーロが扮する役柄、ただそれだけである。
スコセッシはデ・ニーロに演技の極限を要求した、そしてデ・ニーロは40kg増量した。
役のためとはいえ、それほど生易しいことではなく、その負担も大きかったろう。
しかし、これはスコセッシの演技論のサンプルなのだということで、
自らも偏執症気味のデ・ニーロが全面支援を提供し、歴史的シネマ完成に貢献している。
迫真のボクシングシーンとか、
太ったデ・ニーロなどの話題は強烈だったものの、
シネマ自体は正当なスタイルで創られている。
カットの積み重ねと俳優の演技を中心とした進行は、
モノクロ画面と相俟ってシネマの原点を想起させるほどだ。
高倉健さんのコメント
「何回も観たし、これからも観る」から想像できるように、完成度の高いシネマ、
そして創作過程においても優れているシネマなのだろう。
正直なところ、まるでスコセッシ教授の講義を受けたようで
この堅苦しさ、真面目さに、いささかうんざりした。