【丑寅は静かに嗤う~失恋】

文字数 2,244文字

 すべての音が死んだよう。

 気づけば砦の本殿にも炎が広がり始めている。まだ逃げる余裕はある。だが、精神的には、逃げるには遅すぎたのかもしれない。

「……源之助、様」お羊が呟く。

 だが、猿田は何もいわない。ただ、お羊の目を真っ正面から覗くだけ。猿田の目は一見するとあらゆる感情を否定しているように覚めきっているが、こころの動揺は確実に身体の震えとして現れている。

「……ありがとうございました」

 吐息を吐くような微かな声でお羊はいう。そんなお羊の腹には一本の刀身が突き立てられている。その刀身を握るは、いうまでもない猿田、腰元には脇差しの鞘のみが残されている。

「……ごめんなさい」

 ひと筋の涙がお羊の頬を伝う。そして、腹部の傷口からもツーっと血が流れる。赤黒く染まるお羊の着物。死が木綿を伝って広がって行く。だが、猿田は力を弛めることもなければ、感情を露にすることもない。

 一瞬の出来事だった。

 右手と左足を負傷し、相棒である『狂犬』を失った猿田は、猫足立ちの構えを取り、お羊の攻撃に備えた。お羊は棍棒を大きく振り回しながら猿田に近づいた。

 棍棒が猿田の側頭を捉えようとした、その時だった。瞬間的に猿田の姿が消えた。お羊は振り切っていた棍棒を急いで振り返そうとした。だが、その腕は払われ、次の瞬間にはお羊の腹に脇差しの刃が突き立てられていた。

 瞬間的に体を落として入り身をして左手で脇差しを抜き……、決したのだった。

「……本当のことを、申し上げてもよろしい、でしょうか?」

 蚊の鳴くような声で、お羊はいう。だが、猿田は何の反応も示さない。とはいえ、お羊はフッと笑って見せると、

「……はじめから天馬様の屋敷に潜入して松平天馬、及び『天誅屋』を壊滅させるのが目的、でした。それも、父の命によって……」

 猿田の目は依然として人殺しの目、半開きで生気を感じさせない目になっている。まるで、お羊のことばはまったくといっていいほど響いていないように見える。

「はじめは……、単純な話、だと思い、ました。貧乏な町娘の振りをして、人の良い天馬様の気を引いて、助けを請う。後は中からすべてを腐らせる。それだけ、でした……」

「……やめろ」

 漸く猿田は口を開く。そのことばと共に冷徹な殺し屋の瞳と表情は、スーッと消え失せる。だが、お羊は首を横に振り、

「ううん……。最後まで、いわせて下さい」

 お羊の申し出に対し、猿田は何もいわない。ただ、厄が落ちたように、その表情には殺し屋にはあるまじき感情が交差している。

「簡単な仕事。確かに、はじめはそう、でした。でも、それは大間違いだった、とすぐにわかったのです。何故なら、あの屋敷に、貴方様が、源之助様がおられた、から……」

 火が弾けるパチパチという音が響く。

「……わたしは、初めて貴方様を見た時からわかっていました。貴方様は、のらりくらりとしていらっしゃるけど、それは表向き。本当は恐ろしいほどの腕と、業を背負っている、と。でなければ、こんな……」

「もう、いい……」

 視線を外す猿田、その表情は何とか非情な仮面を被り取り繕おうとはしているが、声は正直だった。震える声が、猿田の感情を象徴していた。お羊は女神のように微笑む。

「ほんと……、お優しいのですね。貴方様のような方が殺し屋をなさらなければならない世の中なんて……、ほんと……」お羊の目に涙が滲む。「でも、これで漸く向こうで天馬様、守山様、犬吉様にお詫びすることが出来ます……」

 お羊の身体に震えが走り、まぶたが自然と閉じて行く。震える吐息。今にも絶えてしまいそうなほど微量な空気が、可愛らしいお羊の口から漏れ出している。

 猿田はハッと口を開く。だが、その口はそれ以上動くことはなく、躊躇うようにして閉じられる。お羊が最後の力を振り絞るようにして、小さな笑い声を上げる。

「源之助様、もう……、貴方様は苦しまなくても、いいのですよ……。貴方様はもう、人を殺して悩まなくともいいのですよ……」

「……お羊!」

「お雉さんに、よろしくお願いします。お雉さんには、色々と酷いことを……」

「……わかった! だから……もう、話すな……」

 陽が沈むように最後の輝きを見せて、お羊は自分に出来る最後の太陽を見せる。

「源之助様……、わたしは、貴方様を……」

 ふと、お羊の身体から重みが消える。まるで魂を失った人形のようにその身体は軽くなり、力は失われる。お羊の身体が、猿田の身体へともたれ込む。声を掛けても反応はない。

 猿田はお羊の身体を支えながら、握っていた脇差しから手を離すと、手を震わしながら静かにお羊の背中に手を伸ばそうとする。

 だが、出来ない。

 お羊の背中に手を伸ばそうとしても、伸ばせない。何かが決壊したかのように、猿田はその表情をグシャグシャにする。

 ふたりだけの世界。もう二度と来ないが、今ここにしかないふたりだけの世界。

 猿田はお羊の背に手を回せずにいながら、目から無数の星を落とす。

 嗚咽が炎の弾ける音に混じる。自分の生を求めて燃え盛る炎、死を悔やむ男。

 突然、何かが炸裂するような音が響く。

 猿田の目が見開かれる。お羊の右胸に風穴が開いている。そして、猿田の左胸、背中から真っ赤な地獄花。吹き出し、冷たい土へ飛ぶ。

 その場に崩れ落ちるお羊と猿田。血に濡れた猿田の手が震えている。震える手は、お羊の手を求めているようだった。だが、猿田の手はお羊の手に届くことはなかった。そしてーー

 猿田の目から光が消えた。

 【続く】
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登場人物紹介

どうも!    五条です!


といっても、作中の登場人物とかではなくて、作者なんですが。


ここでは適当に思ったことや経験したことをダラダラと書いていこうかな、と。


ま、そんな感じですわ。

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