【いろは歌地獄旅~侍~】
文字数 1,487文字
落ちぶれるところまで落ちぶれたモノだ。
わたしは今、美しき春の景色を見ながら白装束で静かにその時を待っている。
時を待つ。いや、もはや待たずとも問題はなかった。それ以上にわたしが恐れていたのは、死、だけだった。
武士は死ぬことを恐れず、とはよくいったモノだが、そんなのは大ウソだ。怖い。死ぬことは怖い。わたしは今正座し、腿の上に乗っているふたつの握りこぶしは震えている。よくいえば武者震いというヤツだろうがそんな大層なモノではなかった。
やはり怖かった。一時は自分を鼓舞し、一時の喧騒に盛り上がり、死ぬことは怖くないと暗示を掛けてそんな気分にはなったが、
でも、こころの奥底では、ちゃんと育まれていたのだ。死の恐怖が。
だが、もう後はない。将棋でいえば、もう詰んでしまっている。わたしが横暴を働いて大きな顔をし、数多くの町民を無礼討ちとして殺した結果、御奉行や老中に罪の詮議をされ、もはやわたしは黒。死罪は免れられないとなった。
罪状は覆らない。わたしが死ぬことは決まっている。ならば、人の手に掛かる前に、人の目に晒される前に自ら死を選ぶべきだと思っていた。だが、いざ衣服を揃え、庭先に蓙を敷いてそこに座り、面前に裸の短刀を置いても、まだ決心はつかなかった。
それ以上に、わたしはまだ何処かで、自分が生き続けられるのではないか、と有りもしない希望を持ち続けている有り様だ。
だが、もうそんなモノはないのだ。
恥を忍ぶくらいなら、今すぐ死ぬべきだ。死ぬしかないのだ。
わたしは下に敷かれた懐紙もろとも、短刀を手に取った。短刀の鑢部分を懐紙で包み込み、その切先を自分のほうへと向ける、向けるーー向ける。切先は震えている。いや、震えているのは手。わたしの身体。
怖い。死んだらどうなってしまうのか。そう考えたら未知の死というモノでもたらされる無限の闇、無限の終焉の印象が、わたしの頭を、こころを飲み込み離さない。
短刀を置いた。乱暴に。顔には珠のような汗が浮かび、頬を、顔を、伝って流れ落ちる。
助けてくれ。
そんな情けないことばを吐くわけにはいかないが、そんなことばを発したい気分だった。だが、そんなことをいえるような身分ではない。
ハッとした。腹を露にしていない。短刀を突き立てるにしても衣服の上からだと、刺さりも悪く、刀を引く時に刃が布に引っ掛かって上手く引けなくなるだろう。そう考えると無用な痛みばかりを味わうだけで、死への苦痛が増大されるとわかってしまう。
わたしはすぐさま着物をはだけさせ、上半身を露にした。そこには鍛えられた筋肉と僅かに乗った贅肉がある。この身体が、わたしの業そのものだったといっていい。
逃げるな。
もう、逃げ道などないのだ。
わたしは再び短刀を手に取った。今度は勢い良く。だが、そのまま考える余裕も与えずに、わたしは短刀を自分の腹に突き刺した。
全身から脂汗が噴き出す。目を瞑り、刀を引くと、皮膚が裂かれていく痛みが、わたしから、すべてを奪った。痛い。痛い。
汗、落ちる。死ぬ。引く。痛い。声が漏れる。呻き声。叫びたい。叫べない。痛い。痛い。
何か聴こえる。掠れた何か。起こされる。何かに。痛みは消えない。増大する。
家臣の村瀬だった。歪む視界。わたしは微かな声でいう。
「か、介錯、頼、む……」
と村瀬はハッとする。苦虫を噛み潰したよう。訊ねる。
「ど、どうし、た……?」
村瀬は口許を震わせながらいう。
「……疑いが晴れました。無罪です」
絶望が視界を覆った。自刃の必要はなかった。
それからわたしはすぐに短刀を抜いたが、五刻後、すべてが消えた。
わたしは今、美しき春の景色を見ながら白装束で静かにその時を待っている。
時を待つ。いや、もはや待たずとも問題はなかった。それ以上にわたしが恐れていたのは、死、だけだった。
武士は死ぬことを恐れず、とはよくいったモノだが、そんなのは大ウソだ。怖い。死ぬことは怖い。わたしは今正座し、腿の上に乗っているふたつの握りこぶしは震えている。よくいえば武者震いというヤツだろうがそんな大層なモノではなかった。
やはり怖かった。一時は自分を鼓舞し、一時の喧騒に盛り上がり、死ぬことは怖くないと暗示を掛けてそんな気分にはなったが、
でも、こころの奥底では、ちゃんと育まれていたのだ。死の恐怖が。
だが、もう後はない。将棋でいえば、もう詰んでしまっている。わたしが横暴を働いて大きな顔をし、数多くの町民を無礼討ちとして殺した結果、御奉行や老中に罪の詮議をされ、もはやわたしは黒。死罪は免れられないとなった。
罪状は覆らない。わたしが死ぬことは決まっている。ならば、人の手に掛かる前に、人の目に晒される前に自ら死を選ぶべきだと思っていた。だが、いざ衣服を揃え、庭先に蓙を敷いてそこに座り、面前に裸の短刀を置いても、まだ決心はつかなかった。
それ以上に、わたしはまだ何処かで、自分が生き続けられるのではないか、と有りもしない希望を持ち続けている有り様だ。
だが、もうそんなモノはないのだ。
恥を忍ぶくらいなら、今すぐ死ぬべきだ。死ぬしかないのだ。
わたしは下に敷かれた懐紙もろとも、短刀を手に取った。短刀の鑢部分を懐紙で包み込み、その切先を自分のほうへと向ける、向けるーー向ける。切先は震えている。いや、震えているのは手。わたしの身体。
怖い。死んだらどうなってしまうのか。そう考えたら未知の死というモノでもたらされる無限の闇、無限の終焉の印象が、わたしの頭を、こころを飲み込み離さない。
短刀を置いた。乱暴に。顔には珠のような汗が浮かび、頬を、顔を、伝って流れ落ちる。
助けてくれ。
そんな情けないことばを吐くわけにはいかないが、そんなことばを発したい気分だった。だが、そんなことをいえるような身分ではない。
ハッとした。腹を露にしていない。短刀を突き立てるにしても衣服の上からだと、刺さりも悪く、刀を引く時に刃が布に引っ掛かって上手く引けなくなるだろう。そう考えると無用な痛みばかりを味わうだけで、死への苦痛が増大されるとわかってしまう。
わたしはすぐさま着物をはだけさせ、上半身を露にした。そこには鍛えられた筋肉と僅かに乗った贅肉がある。この身体が、わたしの業そのものだったといっていい。
逃げるな。
もう、逃げ道などないのだ。
わたしは再び短刀を手に取った。今度は勢い良く。だが、そのまま考える余裕も与えずに、わたしは短刀を自分の腹に突き刺した。
全身から脂汗が噴き出す。目を瞑り、刀を引くと、皮膚が裂かれていく痛みが、わたしから、すべてを奪った。痛い。痛い。
汗、落ちる。死ぬ。引く。痛い。声が漏れる。呻き声。叫びたい。叫べない。痛い。痛い。
何か聴こえる。掠れた何か。起こされる。何かに。痛みは消えない。増大する。
家臣の村瀬だった。歪む視界。わたしは微かな声でいう。
「か、介錯、頼、む……」
と村瀬はハッとする。苦虫を噛み潰したよう。訊ねる。
「ど、どうし、た……?」
村瀬は口許を震わせながらいう。
「……疑いが晴れました。無罪です」
絶望が視界を覆った。自刃の必要はなかった。
それからわたしはすぐに短刀を抜いたが、五刻後、すべてが消えた。