【藪医者放浪記~拾弐~】
文字数 2,428文字
旅の宿のような二階の広間は、何処か寂れていて殺風景な印象だ。
別に悪い部屋ではないのだが、賑わいの失われた場所に派手さや豪奢さは不釣り合いで、ちょっとしたいい部屋でも、むしろそれは浮いて見え、寂れた印象が強くなってしまう。
緑の着物を着た男が入ってくる。そして、それに続くは渡世人の格好をしたお雉。
「何もねぇところで悪いが、座んなよ」
緑の着物の男がお雉にそう勧めても、お雉は素直に座ろうとはしない。やはりさっき会ったばかり、しかも相手は悪党で、今さっき男の仲間たちが自分を殺そうとして来たことを考えると、警戒するのは当たり前だった。
「何だよ、そんなにおれのことが信用できねぇか。なら、抜き打ち座でも構わねぇんだぜ」
抜き打ち座。これは正座する際に刀を左に置くことを意味する。刀を左に置く、すなわち即座に刀に手を掛けることが出来、かつ居合による瞬間的な斬り付けも可能ということだ。
「抜き打ち座にしなくとも、立っていたほうが何でも出来るでしょ?」とお雉。「それに、誰だか知らない信用出来るかも危うい人に対して刀を外すっていうのは、武士としての心得が出来ていないとは思わない?」
緑の着物の男はこれといった感情を表に出すことはせず、静かにお雉のことを眺める。
「……なるほど、それもそうだな」
「でしょ? 大体、さっきのおバカさんたちの他にも当然仲間はいるんでしょうし。それに、こんな所に誘っておいて自分から名乗り出ない相手のことを誰が信用するの?」
「まぁ、仲間がいることに間違いはない。だけどな、自分から着いて来て名前を名乗ろうともしないヤツも人のことはいえないんじゃねぇか、とおれは思うんだがね」
緊張が音を立ててふたりの間に流れる。互いの顔、汗がこめかみを伝う。手は震え、互いに腰元の得物に手を掛けるのをガマンしている節が見える。緊張状態を隠さんとするように、お雉はギコチナク笑っている。緑の着物の男は何の感情も抱いていないように無表情を貫いている。張り詰める空気。まるですべてが振動しているかのように緊迫している。
「鹿島の伝助。それがおれの名前だ。ふたつ名の通り、使うのは鹿島神流。刀捌きを見るに、アンタ、香取の人間だろ」
お雉はふと口許に笑みを浮かべる。
「ご名答。確かにあたしは香取の生まれで剣術も香取流。相手の手を見極める力があるってことは、アンタも丸っきりのヘボってワケでもなさそうだね」
「ヘボ、か」伝助がふとニヤリと笑う。「ヤツの前じゃ、大抵のヤツはみなヘボといっても過言じゃねえと思うけどな」
「ヤツ?」
「答えてやってもいいが、その前にアンタの名前を教えなよ。それとも名無しの権兵衛氏を貫き通すおつもりかい?」
ふたりの間で視線が音を立てて交差している。お雉はふと不敵な笑みを浮かべるが、対する伝助は一切の感情を排しているかのような無表情で、お雉のことを睨み付けている。
空気が締め付けられている。
風が襖をガタガタ揺らす。
すべての音が癪に障ってしまいそうなほど、やたらと大きく響いている。
「ひとつだけ約束して」とお雉。
「何だ?」
「絶対に不意討ちをするようなマネしないで」
「それはお互い様だろう」
「多勢に無勢ってことば知ってる? 無数の雑魚の前では、ひとりの剣豪も無力だってこと」
「おれが雑魚だといいたいのか?」
「雑魚も剣豪も関係ないでしょ。一対多数なら、まず多数が勝つのは当たり前。不利なのはアナタとあたし、どっちだと思う?」
伝助は観念したように大きく息を吐く
「間違いなくお前のほうだろう。たく、無理して男の振りしやがって」
「あら、バレちゃった?」
「下手な芝居。あっしなんて使い慣れてないことば使うから、緊張したらすぐに『あたし』なんていいやがるんだからな」
お雉は「あっ」といって恥ずかしそうにする。伝助はそんなお雉を見て笑い、
「女ってことがバレると色々と不利だと思ったんだろう。確かに最初は良かったかもしれねぇが、おれにそんなのは通用しねぇよ。それに、もし手下がお前に手を出そうっていうんなら、おれがソイツを片づけるし、それをお前の目の前で堂々と命じてやる。それでどうだ」
お雉は相手に気を許すように笑って見せる。
「他にいいたいことは?」
「旅のモンてのはウソだろ」
「ご名答、何でわかったの?」
「お前の笠だ。旅をしてるにしちゃキレイすぎる」
「取り替えた、とは考えられない?」
「長ドスも一緒に変えるのかい?」黙ったまま笑みを浮かべて立ち尽くしているお雉を見て伝助は、「図星ってところだな」
「でも笠と長ドスだけじゃ判断するには材料がこころもとないとは思わない?」
「手甲と脚絆、草鞋。それらは結構ボロくなってる。つまり、それくらいよく歩くってことだ。でも、そのボロ具合と比べると、明らかに笠と長ドスがキレイすぎる。渡世人ってのは所詮流れ者だ。そんな明日食う銭にも困ってるようなヤツがいっぺんに笠とドス、オマケに風呂敷を変えるとは思えない。それに、奪ったドスにしてもキレイすぎるし、変えるとしたら笠なんかより、歩くための履き物を優先して変えるはずだからな」
「はは、グゥの音も出ないわ」お雉は降伏するように息をつく。「お雉、よ。いつもは新河岸で夜鷹やってる」
「夜鷹にしちゃ、血のにおいがするな」
「ふふ」不敵に嗤うお雉。「気のせいじゃない?」
「そうとは思えねえけどな」と、伝助は外の景色を見たかと思うと、突然身を隠す。
「どうしたの?」
伝助はお雉のことばを遮り、静かにするよう促す。そして、手で自分のほうへ来るよう誘う。お雉はそんな伝助の様子を見て口を閉ざし、ゆっくりと伝助のほうへと向かう。
「……何?」
「外を見てみな……、銀次の用心棒の浪人がいる。よく目に焼き付けておくんだな……。アレが件の男だよ」
お雉はゆっくりと顔を上げ、外を覗き見る。と、お雉はハッとする。
牛馬の姿がそこにある。
「あれは……ッ!」
呼吸が震えていた。
【続く】
別に悪い部屋ではないのだが、賑わいの失われた場所に派手さや豪奢さは不釣り合いで、ちょっとしたいい部屋でも、むしろそれは浮いて見え、寂れた印象が強くなってしまう。
緑の着物を着た男が入ってくる。そして、それに続くは渡世人の格好をしたお雉。
「何もねぇところで悪いが、座んなよ」
緑の着物の男がお雉にそう勧めても、お雉は素直に座ろうとはしない。やはりさっき会ったばかり、しかも相手は悪党で、今さっき男の仲間たちが自分を殺そうとして来たことを考えると、警戒するのは当たり前だった。
「何だよ、そんなにおれのことが信用できねぇか。なら、抜き打ち座でも構わねぇんだぜ」
抜き打ち座。これは正座する際に刀を左に置くことを意味する。刀を左に置く、すなわち即座に刀に手を掛けることが出来、かつ居合による瞬間的な斬り付けも可能ということだ。
「抜き打ち座にしなくとも、立っていたほうが何でも出来るでしょ?」とお雉。「それに、誰だか知らない信用出来るかも危うい人に対して刀を外すっていうのは、武士としての心得が出来ていないとは思わない?」
緑の着物の男はこれといった感情を表に出すことはせず、静かにお雉のことを眺める。
「……なるほど、それもそうだな」
「でしょ? 大体、さっきのおバカさんたちの他にも当然仲間はいるんでしょうし。それに、こんな所に誘っておいて自分から名乗り出ない相手のことを誰が信用するの?」
「まぁ、仲間がいることに間違いはない。だけどな、自分から着いて来て名前を名乗ろうともしないヤツも人のことはいえないんじゃねぇか、とおれは思うんだがね」
緊張が音を立ててふたりの間に流れる。互いの顔、汗がこめかみを伝う。手は震え、互いに腰元の得物に手を掛けるのをガマンしている節が見える。緊張状態を隠さんとするように、お雉はギコチナク笑っている。緑の着物の男は何の感情も抱いていないように無表情を貫いている。張り詰める空気。まるですべてが振動しているかのように緊迫している。
「鹿島の伝助。それがおれの名前だ。ふたつ名の通り、使うのは鹿島神流。刀捌きを見るに、アンタ、香取の人間だろ」
お雉はふと口許に笑みを浮かべる。
「ご名答。確かにあたしは香取の生まれで剣術も香取流。相手の手を見極める力があるってことは、アンタも丸っきりのヘボってワケでもなさそうだね」
「ヘボ、か」伝助がふとニヤリと笑う。「ヤツの前じゃ、大抵のヤツはみなヘボといっても過言じゃねえと思うけどな」
「ヤツ?」
「答えてやってもいいが、その前にアンタの名前を教えなよ。それとも名無しの権兵衛氏を貫き通すおつもりかい?」
ふたりの間で視線が音を立てて交差している。お雉はふと不敵な笑みを浮かべるが、対する伝助は一切の感情を排しているかのような無表情で、お雉のことを睨み付けている。
空気が締め付けられている。
風が襖をガタガタ揺らす。
すべての音が癪に障ってしまいそうなほど、やたらと大きく響いている。
「ひとつだけ約束して」とお雉。
「何だ?」
「絶対に不意討ちをするようなマネしないで」
「それはお互い様だろう」
「多勢に無勢ってことば知ってる? 無数の雑魚の前では、ひとりの剣豪も無力だってこと」
「おれが雑魚だといいたいのか?」
「雑魚も剣豪も関係ないでしょ。一対多数なら、まず多数が勝つのは当たり前。不利なのはアナタとあたし、どっちだと思う?」
伝助は観念したように大きく息を吐く
「間違いなくお前のほうだろう。たく、無理して男の振りしやがって」
「あら、バレちゃった?」
「下手な芝居。あっしなんて使い慣れてないことば使うから、緊張したらすぐに『あたし』なんていいやがるんだからな」
お雉は「あっ」といって恥ずかしそうにする。伝助はそんなお雉を見て笑い、
「女ってことがバレると色々と不利だと思ったんだろう。確かに最初は良かったかもしれねぇが、おれにそんなのは通用しねぇよ。それに、もし手下がお前に手を出そうっていうんなら、おれがソイツを片づけるし、それをお前の目の前で堂々と命じてやる。それでどうだ」
お雉は相手に気を許すように笑って見せる。
「他にいいたいことは?」
「旅のモンてのはウソだろ」
「ご名答、何でわかったの?」
「お前の笠だ。旅をしてるにしちゃキレイすぎる」
「取り替えた、とは考えられない?」
「長ドスも一緒に変えるのかい?」黙ったまま笑みを浮かべて立ち尽くしているお雉を見て伝助は、「図星ってところだな」
「でも笠と長ドスだけじゃ判断するには材料がこころもとないとは思わない?」
「手甲と脚絆、草鞋。それらは結構ボロくなってる。つまり、それくらいよく歩くってことだ。でも、そのボロ具合と比べると、明らかに笠と長ドスがキレイすぎる。渡世人ってのは所詮流れ者だ。そんな明日食う銭にも困ってるようなヤツがいっぺんに笠とドス、オマケに風呂敷を変えるとは思えない。それに、奪ったドスにしてもキレイすぎるし、変えるとしたら笠なんかより、歩くための履き物を優先して変えるはずだからな」
「はは、グゥの音も出ないわ」お雉は降伏するように息をつく。「お雉、よ。いつもは新河岸で夜鷹やってる」
「夜鷹にしちゃ、血のにおいがするな」
「ふふ」不敵に嗤うお雉。「気のせいじゃない?」
「そうとは思えねえけどな」と、伝助は外の景色を見たかと思うと、突然身を隠す。
「どうしたの?」
伝助はお雉のことばを遮り、静かにするよう促す。そして、手で自分のほうへ来るよう誘う。お雉はそんな伝助の様子を見て口を閉ざし、ゆっくりと伝助のほうへと向かう。
「……何?」
「外を見てみな……、銀次の用心棒の浪人がいる。よく目に焼き付けておくんだな……。アレが件の男だよ」
お雉はゆっくりと顔を上げ、外を覗き見る。と、お雉はハッとする。
牛馬の姿がそこにある。
「あれは……ッ!」
呼吸が震えていた。
【続く】