【丑寅は静かに嗤う~相思】
文字数 2,890文字
桧皮色の閃光が猿田源之助の背中を焼く。
広場での死闘からひと足先に離脱した猿田は十二鬼面の隠れ家の最新部へと走る。
巨大な本殿ーーまるで砦のように大きな本殿。火をつけ燃え上がっているはずなのに、その内部は凍てついたようにひんやりしている。手下どもが雑魚寝する組ごとの下宿を燃やすだけでも相当な油が必要だったこともあり本殿に裂ける油の量はそこまで多くなかった。
結果、本殿は氷の塔のように冷たくそびえ立ち、まるで炎の息吹を丸飲みしてしまったようにその熱気を感じさせない。
とはいえ、平穏はそこまで長くは持たないだろう。いくら強大な氷の塊であろうと、火をくべ続ければ、その絶対零度の肉体も汗を掻き、痩せ細り蒸発、気化して天に昇る運命にある。
それは猿田にもわかっているだろう。それを裏づけるかのように猿田の顔は鋼のように固く、目も神経も血走っている。
猿田が床に敷かれた藁を踏み締めると、クシャッと情けない音がする。まったく、これから血でまみれるか、焼かれて灰になるかもしれないというのに何とも緊張感のない音。
が、そんな音も猿田には、まるで己の心音といっても過言ではないほどに張りつめた音に聴こえたことだろう。耳を澄ませ、自分の足音ひとつにも気を配っている様が明らかだ。
ゆっくりと歩くーー前へ進む。
ほの暗い本殿の奥からは影ひとつ見えてこない。もしかしたら、幹部たちはもう逃げてしまったのだろうか。といっても、辰巳は既に猿田が斬り捨ててしまった。
つまり、残る敵はふたりーー
ひとりはいうまでもなく、十二鬼面の頭である『丑寅』である。元凶であり、一番の悪人。しかし、その仮面の下がどうなっているか知る者はほぼおらず、幹部のひとりだった犬蔵ですら、その素顔を知らないという。
そんな、どんな顔をしているかもわからないのっぺらぼう、面を外せば、そこら辺の有象無象と変わりない。逃げられてしまえば、すべてが終わる。最悪の結果で。何も解決せず。残るのは肥溜めいっぱいの後悔と敗北の念だけ。
この戦いで得られるモノは何もない。失うだけの無意味な合戦。無為に人が死に、無為に傷ついていく。怒りや悲しみ、憎しみが疫病のように伝染し、誰も幸せにならない厄災のような殺し合い。それが、この戦い。
では、何故、猿田源之助はこの殺し合いに身を投じたのか。天誅屋の崩壊とともに命からがら田舎に逃げ延びて来た浪人が、今何故こうして再び死線に向かうのか。それはーー
「お待ちしておりました」亡霊のようにボウッと浮かぶ羊と猿の折衷仮面。「源之助様……」
坤、消え入るような声で猿田の名を呼ぶ。だが、猿田は目と口を半開きにし、坤に向かう。猿田は何もいわない。ただ、無言のまま『狂犬』の歯牙を抜き、体を開いて歩き出す。
「やはり、来てしまわれたのですね……」
猿田は一切答えない。ただ、死神のようにユラユラと揺れながら、坤の元へと歩く。ゆっくりとーーゆっくり、と……。
「その腰元の……」
猿田の腰元に差さった脇差しーー十二鬼面の隠れ家に猿田が潜入する際、お雉が渡したモノだ。同時に川越藩直参旗本の故・松平天馬が燃え盛る屋敷の中で自らの腹を突いた得物。
「源之助様……」坤は傍らに立て掛けてある大きな鉄の棍棒を手にする。「ごめんなさーー」
坤がいい終わるより前に、猿田は加速する。
膝を抜き、まるで前へ転びながらも、その足を交互に出して均衡をギリギリで保ちながら走る猿田ーー地面を蹴り上げていない為、脚部全体に掛かる緊張は最小、速さは雷光のよう。
かまいたち、空気を切り裂く刃が坤の着物の逆袈裟を掠り、引き裂く。
一瞬でも遅れていたら間違いなく坤の腹部は斜めに割れ、はらわたは地面に零れ落ちていただろう。だが、坤は一瞬でうしろに下がり、猿田の片手での逆袈裟への斬り上げをかわす。
諸手での逆袈裟への切り下げーー猿田は紡ぐ。
坤は下がる、下がることしか出来ない。並の武士であれば、切り返しの際に微かな隙を見せる。その隙さえ見つけてしまえば、二の矢、三の矢として防御、受け流しといった策を立てる余裕すら出来てしまうし、入り身によって相手の懐に入り、反撃に出ることだって可能。
だが、猿田源之助は違うーー並ではない。
斬り返しの際の隙が紙ほどの隙間もない。一瞬たりともない。躊躇う間もない。斬り上げた狂犬の歯牙は常に坤に向き、反撃や入り身を阻んでいる。まるでヨダレの垂れる巨大な口。喰われたら最期、生きて戻ることのない無限の闇。斬り返しも刀を降り下ろす時は片手で、空いた手は斬り下ろす途中にて柄と落ち合う。とてもではないが、速さが違う。
片手を外し、体を低くして前へ一歩踏み出す猿田ーー坤の足を刈りに行く。
坤は跳ぶ。棍棒を跳ね棒にして。
甲高く無機質な悲鳴が響く。
猿田はそれには構わず、倒れ込むようにして膝を抜くと、追い突きで左の拳を出す。
朽木が割けるような音。
猿田は再び一歩前に出つつ、左足を軸にして右足で上段回し蹴りを放つ。
乾いた音、そしてーー
坤の面が真っ二つに割れる。
割れた面は地面に音を立てて転がる。顔を押さえる坤。だが、猿田は次の攻撃へは行かず、大きくうしろへ下がり反撃や奇襲を受けない程度、坤から距離を取る。
「……流石、です」
よろめく坤ーー何とか体勢を整える。坤の素顔が露になる。お羊ーー目に涙を溜めた、優しい女の素顔がそこにある。
「わたしでは、貴方に勝つことは出来ない。このまま行けば、貴方はわたしを殺せた。なのに、何故下がるのですか?」
猿田は答えない。が、答えは身体にちゃんと出ている。
「……その左手と右足、今の一撃でどちらかがダメになったのですね」
その通り。猿田の肉体と骨はここまでの旅と闘いで消耗していた。普段なら何ともなかったであろうが、左手と右足は微かに赤みを帯び、腫れていた。猿田が距離を取ったのは反撃や奇襲を食らわないようにするためでもあったが、その怪我の深さを悟られないためでもあった。
「それに『狂犬』もーー」
狂犬ーー刀身が折れてなくなっている。
先程の無機質な悲鳴。あれは猿田が坤の足を刈ろうとした時、跳び棒として残っていた棍棒に刀身が当たって折れた音だったのだ。
猿田は折れた『狂犬』を掲げて見る。そして、それを鞘にゆっくりと納め鯉口を締めると、鞘ごと刀を外し、両手に持って静かに刀礼をする。刀礼を終えると、今度は左手で刀を持ち、そのまま片ひざをついて死んだ『狂犬』をゆっくりと地面に置く。
「どんな狂犬でも、年老いてしまえばただの老犬に過ぎない」猿田。「かたじけない……」
「しかし、刀もなく、その身体ではーー」
「バカにするな」
猿田は左足を引き、右足で爪先立ちする。右手は顔の前で手刀の形を作り、左手は手刀の形でヘソを守るように据えている。琉球首里城の武術『ズイティー』における「猫足立ち」による手刀受けの形だ。
「剣術の行き着く先は無刀にあり、だ」猿田は静かに息を吐く。「小林流、猿田源之助、貴女のお命を頂戴する……!」
爆発するように、本殿の火が燃え上がる。
【続く】
広場での死闘からひと足先に離脱した猿田は十二鬼面の隠れ家の最新部へと走る。
巨大な本殿ーーまるで砦のように大きな本殿。火をつけ燃え上がっているはずなのに、その内部は凍てついたようにひんやりしている。手下どもが雑魚寝する組ごとの下宿を燃やすだけでも相当な油が必要だったこともあり本殿に裂ける油の量はそこまで多くなかった。
結果、本殿は氷の塔のように冷たくそびえ立ち、まるで炎の息吹を丸飲みしてしまったようにその熱気を感じさせない。
とはいえ、平穏はそこまで長くは持たないだろう。いくら強大な氷の塊であろうと、火をくべ続ければ、その絶対零度の肉体も汗を掻き、痩せ細り蒸発、気化して天に昇る運命にある。
それは猿田にもわかっているだろう。それを裏づけるかのように猿田の顔は鋼のように固く、目も神経も血走っている。
猿田が床に敷かれた藁を踏み締めると、クシャッと情けない音がする。まったく、これから血でまみれるか、焼かれて灰になるかもしれないというのに何とも緊張感のない音。
が、そんな音も猿田には、まるで己の心音といっても過言ではないほどに張りつめた音に聴こえたことだろう。耳を澄ませ、自分の足音ひとつにも気を配っている様が明らかだ。
ゆっくりと歩くーー前へ進む。
ほの暗い本殿の奥からは影ひとつ見えてこない。もしかしたら、幹部たちはもう逃げてしまったのだろうか。といっても、辰巳は既に猿田が斬り捨ててしまった。
つまり、残る敵はふたりーー
ひとりはいうまでもなく、十二鬼面の頭である『丑寅』である。元凶であり、一番の悪人。しかし、その仮面の下がどうなっているか知る者はほぼおらず、幹部のひとりだった犬蔵ですら、その素顔を知らないという。
そんな、どんな顔をしているかもわからないのっぺらぼう、面を外せば、そこら辺の有象無象と変わりない。逃げられてしまえば、すべてが終わる。最悪の結果で。何も解決せず。残るのは肥溜めいっぱいの後悔と敗北の念だけ。
この戦いで得られるモノは何もない。失うだけの無意味な合戦。無為に人が死に、無為に傷ついていく。怒りや悲しみ、憎しみが疫病のように伝染し、誰も幸せにならない厄災のような殺し合い。それが、この戦い。
では、何故、猿田源之助はこの殺し合いに身を投じたのか。天誅屋の崩壊とともに命からがら田舎に逃げ延びて来た浪人が、今何故こうして再び死線に向かうのか。それはーー
「お待ちしておりました」亡霊のようにボウッと浮かぶ羊と猿の折衷仮面。「源之助様……」
坤、消え入るような声で猿田の名を呼ぶ。だが、猿田は目と口を半開きにし、坤に向かう。猿田は何もいわない。ただ、無言のまま『狂犬』の歯牙を抜き、体を開いて歩き出す。
「やはり、来てしまわれたのですね……」
猿田は一切答えない。ただ、死神のようにユラユラと揺れながら、坤の元へと歩く。ゆっくりとーーゆっくり、と……。
「その腰元の……」
猿田の腰元に差さった脇差しーー十二鬼面の隠れ家に猿田が潜入する際、お雉が渡したモノだ。同時に川越藩直参旗本の故・松平天馬が燃え盛る屋敷の中で自らの腹を突いた得物。
「源之助様……」坤は傍らに立て掛けてある大きな鉄の棍棒を手にする。「ごめんなさーー」
坤がいい終わるより前に、猿田は加速する。
膝を抜き、まるで前へ転びながらも、その足を交互に出して均衡をギリギリで保ちながら走る猿田ーー地面を蹴り上げていない為、脚部全体に掛かる緊張は最小、速さは雷光のよう。
かまいたち、空気を切り裂く刃が坤の着物の逆袈裟を掠り、引き裂く。
一瞬でも遅れていたら間違いなく坤の腹部は斜めに割れ、はらわたは地面に零れ落ちていただろう。だが、坤は一瞬でうしろに下がり、猿田の片手での逆袈裟への斬り上げをかわす。
諸手での逆袈裟への切り下げーー猿田は紡ぐ。
坤は下がる、下がることしか出来ない。並の武士であれば、切り返しの際に微かな隙を見せる。その隙さえ見つけてしまえば、二の矢、三の矢として防御、受け流しといった策を立てる余裕すら出来てしまうし、入り身によって相手の懐に入り、反撃に出ることだって可能。
だが、猿田源之助は違うーー並ではない。
斬り返しの際の隙が紙ほどの隙間もない。一瞬たりともない。躊躇う間もない。斬り上げた狂犬の歯牙は常に坤に向き、反撃や入り身を阻んでいる。まるでヨダレの垂れる巨大な口。喰われたら最期、生きて戻ることのない無限の闇。斬り返しも刀を降り下ろす時は片手で、空いた手は斬り下ろす途中にて柄と落ち合う。とてもではないが、速さが違う。
片手を外し、体を低くして前へ一歩踏み出す猿田ーー坤の足を刈りに行く。
坤は跳ぶ。棍棒を跳ね棒にして。
甲高く無機質な悲鳴が響く。
猿田はそれには構わず、倒れ込むようにして膝を抜くと、追い突きで左の拳を出す。
朽木が割けるような音。
猿田は再び一歩前に出つつ、左足を軸にして右足で上段回し蹴りを放つ。
乾いた音、そしてーー
坤の面が真っ二つに割れる。
割れた面は地面に音を立てて転がる。顔を押さえる坤。だが、猿田は次の攻撃へは行かず、大きくうしろへ下がり反撃や奇襲を受けない程度、坤から距離を取る。
「……流石、です」
よろめく坤ーー何とか体勢を整える。坤の素顔が露になる。お羊ーー目に涙を溜めた、優しい女の素顔がそこにある。
「わたしでは、貴方に勝つことは出来ない。このまま行けば、貴方はわたしを殺せた。なのに、何故下がるのですか?」
猿田は答えない。が、答えは身体にちゃんと出ている。
「……その左手と右足、今の一撃でどちらかがダメになったのですね」
その通り。猿田の肉体と骨はここまでの旅と闘いで消耗していた。普段なら何ともなかったであろうが、左手と右足は微かに赤みを帯び、腫れていた。猿田が距離を取ったのは反撃や奇襲を食らわないようにするためでもあったが、その怪我の深さを悟られないためでもあった。
「それに『狂犬』もーー」
狂犬ーー刀身が折れてなくなっている。
先程の無機質な悲鳴。あれは猿田が坤の足を刈ろうとした時、跳び棒として残っていた棍棒に刀身が当たって折れた音だったのだ。
猿田は折れた『狂犬』を掲げて見る。そして、それを鞘にゆっくりと納め鯉口を締めると、鞘ごと刀を外し、両手に持って静かに刀礼をする。刀礼を終えると、今度は左手で刀を持ち、そのまま片ひざをついて死んだ『狂犬』をゆっくりと地面に置く。
「どんな狂犬でも、年老いてしまえばただの老犬に過ぎない」猿田。「かたじけない……」
「しかし、刀もなく、その身体ではーー」
「バカにするな」
猿田は左足を引き、右足で爪先立ちする。右手は顔の前で手刀の形を作り、左手は手刀の形でヘソを守るように据えている。琉球首里城の武術『ズイティー』における「猫足立ち」による手刀受けの形だ。
「剣術の行き着く先は無刀にあり、だ」猿田は静かに息を吐く。「小林流、猿田源之助、貴女のお命を頂戴する……!」
爆発するように、本殿の火が燃え上がる。
【続く】