【西陽の当たる地獄花~拾漆~】
文字数 2,349文字
弱すぎるーーおれは地面に転がるいくつもの亡骸を見渡して思う。
うしろを振り返る。そこには血溜まり。その真ん中にはあの犬コロが佇んでいる。犬コロは相変わらずの不気味な容姿。
そして、前足にはいくつもの肉塊。転がる刀からして、極楽の兵卒たちはみな、あの犬コロに喰われてしまったのだろう。
おれはそれを何の感情もなく眺める。
強い者が生き、弱い者が死ぬーーそれがこの世の常だ。この土を血で染めた極楽の兵卒たちは、みな弱かった。それだけの話。
つまり、おれもーー
あの時、どうして猿田源之助は動かなかったのか。それは恐らく、おれと同じだと思う。
そう、おれも動かなかった。
いや、動けなかったのだ。
相手を鬼だと悟った瞬間、意識は見に回るよう指示したーーたった一瞬だけ。
おれと猿田はただ互いの目を見つめ、互いの切先を相手の喉元に突きつけているだけ。
ふと、そんな生前の記憶が蘇る。
神のほうを見る。極楽の上級役人たちは恐怖で顔を引き吊らせ、神は歯軋りをしている。
おれは神たちのいる観覧座敷に向かって歩き出す。上級役人たちが悲鳴を上げる。次は自分かもしれない、そう感じたのだろう。
「朕は逃げるぞよ! 後は頼む!」
そういって神はその場から駆けて行ってしまう。どよめく上級役人たち。次は自分という考えが現実味を帯びて来る。
まったく無責任だ。神ともあろう野郎が。
いつだって責任を取るべき上の立場の人間は逃げ回り、ある種の被害者であるしたの人間が犠牲者となる。そんな責任の押し付け合いが何度も続く。悪循環。いたちごっこ。
だが、おれにはそんなことは関係ない。
おれは走ることもなく、ただただ歩いて上級役人たちの元へ寄っていく。
その間も走馬灯のように生前の記憶が頭の中で飛び交う。別に過去のことを思い出そうとはしていない。ただ、思考が脳から漏れ出して来るのが止められないのだ。
「おれを殺したいか?」
おれが上級役人たちに訊ねると、上級役人たちは身体を震わせながら声にならない声を上げる。おれはそんなことにはお構いなしに、
「おれを殺したければ、まことの鬼でも連れて来るんだな」
おれは自分でそういっておきながら、そんな鬼は存在しないことを知っている。まことの鬼、それに相当する相手は猿田源之助以外に知らない。あれは本物の鬼だ。
走馬灯ーー刀を抜いたはいいが、猿田源之助は静止している。おれも様子を伺うために何もしない。相手の表情は弛んでいる。だが、そこに感情というモノはない。
どれだけの合間をヤツと睨み合っていただろう、おれはとうとう動き出した。といっても、少しヤツににじり寄っただけだが。
ヤツもにじり寄って来た。同じくらいの歩幅で、同じくらいの速さで。これはもはや技術の問題ではないと悟った。
これは忍耐の勝負。先に我慢が出来なくなったほうが敗北の土を舐めることとなるだろう。
だが、おれは動いてしまった。相手ににじり寄るというちょっとした動作ではあったとはいえ、これが悪手だったのかもしれない。
おれと猿田源之助は互いに少しずつにじり寄り、互いの切先と切先が三寸ほど交わったところで静止した。
動けなかった。先に動けば死ぬーー不意にそう思った。おれは自分のこめかみから汗が流れ落ちるのを感じた。
秋の涼しい夜に、こんな汗を掻くだなんて。おれは自分の緊張を自覚せざるを得なかった。吐き気がした。こんなにも緊張したのは初めてだったかもしれなかった。
おれはゆっくりと白い息を吐いた。
来い……!ーー頭の中で何度もそう反芻した。だが、ヤツは来なかった。
おれはーー
気がつけば、その場に倒れていた。袈裟懸けに入った深い刀傷は、おれの肺を切り裂いたのか、息をするのがとてつもなく苦しかった。
荒くなる呼吸の中、おれはヤツに微笑みを見せてやりながらいったーー
「……誰の、差し金だ?」
だが、ヤツはこれといった表情も見せることなく、
「知らない。ただ、貴殿と貴殿を雇った盗賊たちをやって欲しいといわれただけだ」
朦朧とする意識の中で猿田源之助のことばがグルグルとおれの中を回った。恨みなら散々買った。おれたちを殺したいというヤツラならば数えきれないほどいるだろう。
だが、不意におれはその依頼をしたのが誰だかわかった気がした。
「ひとつ、いいか……?」
「……何だ?」
猿田源之助は刀を鞘に納めることもなく、おれに訊き返した。おれは自分の肉体から息が漏れて行くのを感じながらいったーー
「これは……、盗賊を消せ、との頼み、か?」
猿田源之助は何の動きも見せなかった。口は真一文字に結ばれていた。だが、少しの間を置いて、ヤツは口を開いた。
「具体的な話は知らないが、いちばんは貴殿、とのことだったかもしれない」
おれは微笑んでやった。
「随分と、曖昧、なんだな……」
ヤツは笑いもしなかった。自分の視界が歪んで行くのがわかった。多分、これが死の一歩手前なのだろうと感じた。
ヤツは左手をおれに掲げて見せた。ヤツの手は揺れていた。おれはーー
「視界が、歪んで、やがる……」
だが、ヤツはーー
「いや、おれの身体は今、震えている」
そういい放った。そこでおれは暗闇に飲み込まれ、現世での記憶は絶たれた。
おれの身体は今、震えているーーあの時の猿田源之助のことば、あれは一体どういう意味だったのだろうか。ヤツも人の子だったということか。それとも、おれを斬って快楽に打ち震えていたということか。
真相は闇の中。おれが死んでしまった以上、ヤツに真実を問う機会はない。
だが、可能ならば、またーー
おれは下らない過去の記憶を絶ち切って、上級役人どもの元へ歩む。
「牛馬ーーおれは西陽の当たる地獄花だ」
おれは今、生きているーー
【続く】
うしろを振り返る。そこには血溜まり。その真ん中にはあの犬コロが佇んでいる。犬コロは相変わらずの不気味な容姿。
そして、前足にはいくつもの肉塊。転がる刀からして、極楽の兵卒たちはみな、あの犬コロに喰われてしまったのだろう。
おれはそれを何の感情もなく眺める。
強い者が生き、弱い者が死ぬーーそれがこの世の常だ。この土を血で染めた極楽の兵卒たちは、みな弱かった。それだけの話。
つまり、おれもーー
あの時、どうして猿田源之助は動かなかったのか。それは恐らく、おれと同じだと思う。
そう、おれも動かなかった。
いや、動けなかったのだ。
相手を鬼だと悟った瞬間、意識は見に回るよう指示したーーたった一瞬だけ。
おれと猿田はただ互いの目を見つめ、互いの切先を相手の喉元に突きつけているだけ。
ふと、そんな生前の記憶が蘇る。
神のほうを見る。極楽の上級役人たちは恐怖で顔を引き吊らせ、神は歯軋りをしている。
おれは神たちのいる観覧座敷に向かって歩き出す。上級役人たちが悲鳴を上げる。次は自分かもしれない、そう感じたのだろう。
「朕は逃げるぞよ! 後は頼む!」
そういって神はその場から駆けて行ってしまう。どよめく上級役人たち。次は自分という考えが現実味を帯びて来る。
まったく無責任だ。神ともあろう野郎が。
いつだって責任を取るべき上の立場の人間は逃げ回り、ある種の被害者であるしたの人間が犠牲者となる。そんな責任の押し付け合いが何度も続く。悪循環。いたちごっこ。
だが、おれにはそんなことは関係ない。
おれは走ることもなく、ただただ歩いて上級役人たちの元へ寄っていく。
その間も走馬灯のように生前の記憶が頭の中で飛び交う。別に過去のことを思い出そうとはしていない。ただ、思考が脳から漏れ出して来るのが止められないのだ。
「おれを殺したいか?」
おれが上級役人たちに訊ねると、上級役人たちは身体を震わせながら声にならない声を上げる。おれはそんなことにはお構いなしに、
「おれを殺したければ、まことの鬼でも連れて来るんだな」
おれは自分でそういっておきながら、そんな鬼は存在しないことを知っている。まことの鬼、それに相当する相手は猿田源之助以外に知らない。あれは本物の鬼だ。
走馬灯ーー刀を抜いたはいいが、猿田源之助は静止している。おれも様子を伺うために何もしない。相手の表情は弛んでいる。だが、そこに感情というモノはない。
どれだけの合間をヤツと睨み合っていただろう、おれはとうとう動き出した。といっても、少しヤツににじり寄っただけだが。
ヤツもにじり寄って来た。同じくらいの歩幅で、同じくらいの速さで。これはもはや技術の問題ではないと悟った。
これは忍耐の勝負。先に我慢が出来なくなったほうが敗北の土を舐めることとなるだろう。
だが、おれは動いてしまった。相手ににじり寄るというちょっとした動作ではあったとはいえ、これが悪手だったのかもしれない。
おれと猿田源之助は互いに少しずつにじり寄り、互いの切先と切先が三寸ほど交わったところで静止した。
動けなかった。先に動けば死ぬーー不意にそう思った。おれは自分のこめかみから汗が流れ落ちるのを感じた。
秋の涼しい夜に、こんな汗を掻くだなんて。おれは自分の緊張を自覚せざるを得なかった。吐き気がした。こんなにも緊張したのは初めてだったかもしれなかった。
おれはゆっくりと白い息を吐いた。
来い……!ーー頭の中で何度もそう反芻した。だが、ヤツは来なかった。
おれはーー
気がつけば、その場に倒れていた。袈裟懸けに入った深い刀傷は、おれの肺を切り裂いたのか、息をするのがとてつもなく苦しかった。
荒くなる呼吸の中、おれはヤツに微笑みを見せてやりながらいったーー
「……誰の、差し金だ?」
だが、ヤツはこれといった表情も見せることなく、
「知らない。ただ、貴殿と貴殿を雇った盗賊たちをやって欲しいといわれただけだ」
朦朧とする意識の中で猿田源之助のことばがグルグルとおれの中を回った。恨みなら散々買った。おれたちを殺したいというヤツラならば数えきれないほどいるだろう。
だが、不意におれはその依頼をしたのが誰だかわかった気がした。
「ひとつ、いいか……?」
「……何だ?」
猿田源之助は刀を鞘に納めることもなく、おれに訊き返した。おれは自分の肉体から息が漏れて行くのを感じながらいったーー
「これは……、盗賊を消せ、との頼み、か?」
猿田源之助は何の動きも見せなかった。口は真一文字に結ばれていた。だが、少しの間を置いて、ヤツは口を開いた。
「具体的な話は知らないが、いちばんは貴殿、とのことだったかもしれない」
おれは微笑んでやった。
「随分と、曖昧、なんだな……」
ヤツは笑いもしなかった。自分の視界が歪んで行くのがわかった。多分、これが死の一歩手前なのだろうと感じた。
ヤツは左手をおれに掲げて見せた。ヤツの手は揺れていた。おれはーー
「視界が、歪んで、やがる……」
だが、ヤツはーー
「いや、おれの身体は今、震えている」
そういい放った。そこでおれは暗闇に飲み込まれ、現世での記憶は絶たれた。
おれの身体は今、震えているーーあの時の猿田源之助のことば、あれは一体どういう意味だったのだろうか。ヤツも人の子だったということか。それとも、おれを斬って快楽に打ち震えていたということか。
真相は闇の中。おれが死んでしまった以上、ヤツに真実を問う機会はない。
だが、可能ならば、またーー
おれは下らない過去の記憶を絶ち切って、上級役人どもの元へ歩む。
「牛馬ーーおれは西陽の当たる地獄花だ」
おれは今、生きているーー
【続く】