【丑寅は静かに嗤う~談話】
文字数 2,750文字
革を激しく打つような激烈な音が響く。
鎖に繋がれた手足はだらりと垂れている。衣服はボロボロ。顔にはいくつものドス黒いアザが沈殿している。響く悲鳴ーー卯乃のモノだ。
ここは大鳥の屋敷の蔵の中。薄暗い蔵は戸と窓が開いており、その中で鎖の枷に両腕を繋がれ、両足を丸太のように太い竹にくくりつけられている男がひとりーーそれが犬蔵だ。
犬蔵を殴打するのは、浜辺で卯乃をいじめ、犬蔵に返り討ちにされた子供ふたりーーひとりはややがっしりとした体格だが背の低い大鳥家長男の一真、もうひとりは背は高いが稲のようにひょろひょろな大鳥家次男の政。
更にそれを周りで見ているのは、猿田源之助にお卯乃、そしてお卯乃を押さえつける若侍がふたり。他にギャラリーはいない。
激しい殴打の連続。だが犬蔵はグッタリすることなく髪を垂らして魔のような形相を浮かべている。一真と政のふたりは高笑いしながら箒尻で何度も何度も何度も犬蔵をぶっ叩く。
「この非人野郎! どうだ!?」
長男の一真がいう。だが、犬蔵は顔面をしばかれても、首を振り向かせざま、血の混じった唾を一真の顔面にぶちまける。
ネットリとした真っ赤な唾が、一真の顔から垂れる。時間が止まったよう。それを見ている猿田はうっすらと笑みを浮かべる。
激昂する一真と政ーー犬蔵に詰め寄る。
「貴様! 非人の分際で!」
一真の手がピタリと止まる。箒尻を持った手ーーそれをうしろから掴む何者かの手がある。
「坊っちゃん、そこまでにしときなさいな」
猿田源之助。一真は振り返りざま、
「うるさい! 浪人は黙ってーー」
一真は猿田の顔を見て黙る。猿田の顔はまるで死んだように無機質だ。政も鬼でも見たように恐怖に顔を歪めてうしろじさる。
「な、何だよ……」
何とかしてそう返すも政と一真の腰は明らかに引けている。こう見ると、ふたりとも大した腕は持っていないのだろう。雑魚ほど意気がった態度を取りたがるモノだ。
「そのままその男をぶっ叩いたところで、何になるというのです。少しずつ衰弱させて、苦しめて殺すつもりですかね?」
猿田の口調は平坦ながらも、どこか激情的だ。一真と政は威勢を取り戻し切れずに、尚もビビった調子で、
「そ、そうだ! この男は、おれたちに恥を掻かせたんだ! その罪の重さを、苦しませて教えてやらなければ許せぬ!」
「その程度のことで、ですか」猿田は嘲笑するように口許を歪めていう。
「その程度のことだとぉ?」
一真と政は猿田に僅かに寄る。恐怖心があるのか、そこまで詰め寄ることはできないようだ。猿田は尚も続けるーー
「おふたりは果たし合いというモノを御存知ないようですな」
「何だと?」政。
「真剣勝負での負けは、真剣勝負で返したら如何でしょう。そうでなくとも、おふたりはこの男に手加減されて生き延びているのですから」
「貴様! おれたちを侮辱するのか!」一真。
威勢だけはいいふたりは、猿田に食って掛かろうとするも、向かって行こうとはしない。今度は思い立ったように政が笑って見せーー
「貴様、もしやおれたちに歯向かおうっていうのか? いいぞ、やってみろ。こっちは旗本、貴様のような浪人ひとりーー」
「止めなさい」
蔵の外から聴こえた声に、その場にいた全員が顔を向ける。大鳥平兵衛が立っている。そしてその傍らには牛野の姿。
「父上……!」
「ですが……!」
「お前たちふたりがいくら自分の立場を喧伝しようと、わたしの配下の侍を総動員しようと、そのお方には勝てはしないだろう」
大鳥平兵衛のことばに、息子たちは顔を見合わせる。平兵衛は猿田に、
「源之助殿、お見苦しいところをお見せしてしまいましたな」
「いえ、それはいいのです。ただ、こちらのおばあさんには刺激が強かったかと」
「……それもそうだな。その御方をお離ししろ」困惑する侍たちを目に平兵衛は、「拙者のいうことがわからぬのか?」
凄みのある視線に、侍たちはすぐさま卯乃から手を離す。卯乃は自由になった身体を擦る。そんな卯乃の元に平兵衛は屈み込み、
「まことにかたじけなかった。うちのバカ息子たちがご迷惑をお掛けしたようで」
卯乃はことばを失う。旗本相手に何と答えていいかもわからなかったのだろう。
「それで終わりではないでしょう」猿田がいう。「謝るなら、今、ここで散々なぶりモノにされていた、この犬蔵にもしなければならないと、わたしは思いますが」
猿田のいい分に息子ふたりが噛みつく。だが、平兵衛はそんな息子たちに、
「黙れ!……源之助殿のいう通りだ」と犬蔵の目の前まで行くと大層な袴を穿いた両膝を地面に汚すと、「犬蔵殿、この通りだ。この度は息子たちが御主に酷くご迷惑を掛けた。どうか、許しては貰えぬか?」
額を地面に擦り付ける平兵衛。それを見た犬蔵は微かに笑みを浮かべていう。
「……おれはどうでもいい。だが……、今、ここでおれがアンタらを許したところで……、このふたりはまた誰かを強請り、因縁をつける……。ならば……」
「ならば……?」
「互いに刀を抜いて決着というのはどうでしょうか?」そう口出ししたのは、牛野だ。「源之助殿も仰られていたではないですか。坊っちゃんたちは、その犬蔵殿を倒したい。犬蔵殿はそのおふたりを放っておけば、また誰かを傷つけると仰せられる。ならば、これは決闘で片をつけるしかないのではありませんか?」
牛野の提案に一真と政はーー
「そうだ! それがいい! 何、こんな傷だらけの野良犬相手に負けるはずがないからな」
「だとしたらーー」猿田が口を挟む。「そちらの御子息ふたりとこのボロボロになった犬蔵では分が悪すぎる。ここは対等に二対二でやっては如何だろうか?」
「はぁ? となるとこの野良犬とあと誰が相手を務めるというのだ」一真がいう。「まさか貴様がーー」
「わたしがお相手しましょう」再び蔵の外から声ーー桃川ーーそのうしろにはお雉の姿もある。「わたしが、その犬蔵さんの助太刀として入りましょう。よろしいですね?」
桃川の突然の登場に息子たちは困惑するが、すぐさま一真ーー
「よし、それで行こう!」
「待て!」平兵衛が叫ぶ。
「父上! 止めないで下さい! これは男と男の勝負なのですから、例え父上でも!」
これには平兵衛も黙り込む。が、少しして、
「……わかった。ただし、条件がある。勝負に使うのは真剣ではなく、木刀であること。互いのどちらかが死ぬのを、拙者も見たくはないのだ。これを飲むのなら、構わぬ」
平兵衛の提案に、一真も政も異論はない。桃川も、そして犬蔵もーー。
「では決まりですね」牛野。「ですが、わたしからもひとつ提案がありますーー」
牛野の目は猿田のほうに向いているーー
【続く】
鎖に繋がれた手足はだらりと垂れている。衣服はボロボロ。顔にはいくつものドス黒いアザが沈殿している。響く悲鳴ーー卯乃のモノだ。
ここは大鳥の屋敷の蔵の中。薄暗い蔵は戸と窓が開いており、その中で鎖の枷に両腕を繋がれ、両足を丸太のように太い竹にくくりつけられている男がひとりーーそれが犬蔵だ。
犬蔵を殴打するのは、浜辺で卯乃をいじめ、犬蔵に返り討ちにされた子供ふたりーーひとりはややがっしりとした体格だが背の低い大鳥家長男の一真、もうひとりは背は高いが稲のようにひょろひょろな大鳥家次男の政。
更にそれを周りで見ているのは、猿田源之助にお卯乃、そしてお卯乃を押さえつける若侍がふたり。他にギャラリーはいない。
激しい殴打の連続。だが犬蔵はグッタリすることなく髪を垂らして魔のような形相を浮かべている。一真と政のふたりは高笑いしながら箒尻で何度も何度も何度も犬蔵をぶっ叩く。
「この非人野郎! どうだ!?」
長男の一真がいう。だが、犬蔵は顔面をしばかれても、首を振り向かせざま、血の混じった唾を一真の顔面にぶちまける。
ネットリとした真っ赤な唾が、一真の顔から垂れる。時間が止まったよう。それを見ている猿田はうっすらと笑みを浮かべる。
激昂する一真と政ーー犬蔵に詰め寄る。
「貴様! 非人の分際で!」
一真の手がピタリと止まる。箒尻を持った手ーーそれをうしろから掴む何者かの手がある。
「坊っちゃん、そこまでにしときなさいな」
猿田源之助。一真は振り返りざま、
「うるさい! 浪人は黙ってーー」
一真は猿田の顔を見て黙る。猿田の顔はまるで死んだように無機質だ。政も鬼でも見たように恐怖に顔を歪めてうしろじさる。
「な、何だよ……」
何とかしてそう返すも政と一真の腰は明らかに引けている。こう見ると、ふたりとも大した腕は持っていないのだろう。雑魚ほど意気がった態度を取りたがるモノだ。
「そのままその男をぶっ叩いたところで、何になるというのです。少しずつ衰弱させて、苦しめて殺すつもりですかね?」
猿田の口調は平坦ながらも、どこか激情的だ。一真と政は威勢を取り戻し切れずに、尚もビビった調子で、
「そ、そうだ! この男は、おれたちに恥を掻かせたんだ! その罪の重さを、苦しませて教えてやらなければ許せぬ!」
「その程度のことで、ですか」猿田は嘲笑するように口許を歪めていう。
「その程度のことだとぉ?」
一真と政は猿田に僅かに寄る。恐怖心があるのか、そこまで詰め寄ることはできないようだ。猿田は尚も続けるーー
「おふたりは果たし合いというモノを御存知ないようですな」
「何だと?」政。
「真剣勝負での負けは、真剣勝負で返したら如何でしょう。そうでなくとも、おふたりはこの男に手加減されて生き延びているのですから」
「貴様! おれたちを侮辱するのか!」一真。
威勢だけはいいふたりは、猿田に食って掛かろうとするも、向かって行こうとはしない。今度は思い立ったように政が笑って見せーー
「貴様、もしやおれたちに歯向かおうっていうのか? いいぞ、やってみろ。こっちは旗本、貴様のような浪人ひとりーー」
「止めなさい」
蔵の外から聴こえた声に、その場にいた全員が顔を向ける。大鳥平兵衛が立っている。そしてその傍らには牛野の姿。
「父上……!」
「ですが……!」
「お前たちふたりがいくら自分の立場を喧伝しようと、わたしの配下の侍を総動員しようと、そのお方には勝てはしないだろう」
大鳥平兵衛のことばに、息子たちは顔を見合わせる。平兵衛は猿田に、
「源之助殿、お見苦しいところをお見せしてしまいましたな」
「いえ、それはいいのです。ただ、こちらのおばあさんには刺激が強かったかと」
「……それもそうだな。その御方をお離ししろ」困惑する侍たちを目に平兵衛は、「拙者のいうことがわからぬのか?」
凄みのある視線に、侍たちはすぐさま卯乃から手を離す。卯乃は自由になった身体を擦る。そんな卯乃の元に平兵衛は屈み込み、
「まことにかたじけなかった。うちのバカ息子たちがご迷惑をお掛けしたようで」
卯乃はことばを失う。旗本相手に何と答えていいかもわからなかったのだろう。
「それで終わりではないでしょう」猿田がいう。「謝るなら、今、ここで散々なぶりモノにされていた、この犬蔵にもしなければならないと、わたしは思いますが」
猿田のいい分に息子ふたりが噛みつく。だが、平兵衛はそんな息子たちに、
「黙れ!……源之助殿のいう通りだ」と犬蔵の目の前まで行くと大層な袴を穿いた両膝を地面に汚すと、「犬蔵殿、この通りだ。この度は息子たちが御主に酷くご迷惑を掛けた。どうか、許しては貰えぬか?」
額を地面に擦り付ける平兵衛。それを見た犬蔵は微かに笑みを浮かべていう。
「……おれはどうでもいい。だが……、今、ここでおれがアンタらを許したところで……、このふたりはまた誰かを強請り、因縁をつける……。ならば……」
「ならば……?」
「互いに刀を抜いて決着というのはどうでしょうか?」そう口出ししたのは、牛野だ。「源之助殿も仰られていたではないですか。坊っちゃんたちは、その犬蔵殿を倒したい。犬蔵殿はそのおふたりを放っておけば、また誰かを傷つけると仰せられる。ならば、これは決闘で片をつけるしかないのではありませんか?」
牛野の提案に一真と政はーー
「そうだ! それがいい! 何、こんな傷だらけの野良犬相手に負けるはずがないからな」
「だとしたらーー」猿田が口を挟む。「そちらの御子息ふたりとこのボロボロになった犬蔵では分が悪すぎる。ここは対等に二対二でやっては如何だろうか?」
「はぁ? となるとこの野良犬とあと誰が相手を務めるというのだ」一真がいう。「まさか貴様がーー」
「わたしがお相手しましょう」再び蔵の外から声ーー桃川ーーそのうしろにはお雉の姿もある。「わたしが、その犬蔵さんの助太刀として入りましょう。よろしいですね?」
桃川の突然の登場に息子たちは困惑するが、すぐさま一真ーー
「よし、それで行こう!」
「待て!」平兵衛が叫ぶ。
「父上! 止めないで下さい! これは男と男の勝負なのですから、例え父上でも!」
これには平兵衛も黙り込む。が、少しして、
「……わかった。ただし、条件がある。勝負に使うのは真剣ではなく、木刀であること。互いのどちらかが死ぬのを、拙者も見たくはないのだ。これを飲むのなら、構わぬ」
平兵衛の提案に、一真も政も異論はない。桃川も、そして犬蔵もーー。
「では決まりですね」牛野。「ですが、わたしからもひとつ提案がありますーー」
牛野の目は猿田のほうに向いているーー
【続く】