【明日、白夜になる前に~睦拾~】
文字数 2,432文字
人間の脳は欠陥ばかりだと思う。
確かに経験として、そこにある光景を記憶することが出来るが、問題はその逆、とある光景に関していってしまえば、とてつもなく鮮やかに、そしてセンセーショナルに記憶を呼び起こしてしまうということだ。
さて、その記憶というのは個人によって大きく異なるだろうし、ない人にはまったくないだろう。だが、ぼくにはある。ひとつ、その場の悪臭と光景のすべてが、くさい汗が皮膚を伝うように流れる不快感を。
その光景の中では、なくなったはずの右腕も甦っている。というより、この時を境にぼくの右腕は失われたのだった。
たまき、狂った女。
何かに取り憑かれたような虚無的で不気味な笑みを浮かべる女。あの時の痛み。ヤスリで身体を削られていくあの感触。今でもふとした瞬間に思い出す。思い出したくなどないのに、真っ白な太陽がそれを呼び起こす。
薄暗さの中に取り残され、解放されて浴びた真っ白な陽光がハレーションを伴ってぼくの水晶体を焼くあの経験を忘れることが出来ない。
人間は同じ失敗を繰り返さないために、記憶を保とうとする。だが、すべての記憶が保っておくべきモノではない。忘れるべき記憶というモノも存在する。何の価値もない、むしろトラウマとなってその人の今後の人生を大きく縛りつける悪夢のような記憶が存在する。
そして、そんな記憶に限って、脳はいつまでも覚えている。まるでそれが必要であるといわんばかりに。必要などないのだ。人間の脳には無駄な学習能力が備わっている。
そして、それは時に暴走し、過度に作用し、精神は蝕まれ、人として壊れていく。
そんな異常なまでの働きを制御出来ないなど、人間の脳はもちろん、人間を作った神はもっとバカだと思うのだ。吐き気がする。忘れたい記憶など残しておく価値はないのだ。まるでアンインストールするように、そこにある下らない記憶をデリート、削除出来るように、どうしてしなかったのだ。わからない。
声がこだまする。あの不敵な笑い声がぼくの内耳をこだまする。そこにはないはずの笑い声を、記憶が勝手に再生し、ぼくを苦しめる。すべての音はリバーヴが掛かって、まるで意識は夢の中。だが、そこにあるのは真実の恐怖。
頭が焼け焦げて行く。チカチカする視界。眩しい太陽。薄暗い部屋。真顔。笑顔。遠く近い。距離が一気に詰められ遠ざかる。目まぐるしく変化する。景色。景色が目まぐるしい。公園。家。駅。会社。駅。駅。公園。真っ暗。暗闇。闇。闇。闇……。
助けて。届かない声。闇に飲まれる。飲まれたのではない。声が出ない。身体が否定する。声を出すな、と。腐り落ちていく右腕。ないはずの右腕が痛む。痛い。痛い。神経を少しずつペンチで引き伸ばされ、唐突に切られるような激痛の記憶が頭の中で炸裂する。
くさい汗が何日も風呂に入っていない垢だらけの不潔な身体を伝っていく。口の中は渇いて、ヘドロのような悪臭が口の奥から、鼻の奥から漂って来るような不快感がある。
眩しい日差しが音を伴ってぼくの目を、脳を焼く。まるで肉を焼くような、不愉快な……。
「どうしたの……?」
ハッとして正気に戻った時、ぼくは全身汗でビッショリになっていた。
焼ける牛肉。赤身は消え、既に黒ずみ始めている。微かに食べ頃を過ぎている。だが、脂身は今も尚、弾けては音を立てている。まるで人間の身体を真綿の紐でギリギリと締め上げていくようなそんな音が聴こえて来るような。
目の前には心配そうにぼくのほうへ身を乗り出す里村さんの姿がある。たまきではない。
そうだ、ぼくは今、里村さんと食事を共にしている。だが、その時間も何者かによって設けられ、コントロールされているよう。
たまきではない。
そう、たまきであるはずがないのだ。彼女は今牢獄の向こう側にいるのだから。脱獄なんかしていないはずだ。そこら辺の話があれば、ニュースなり、警察からも何かしらのアプローチはあるだろう。だが、それがない。となると、
たまきではないのだ。
だが、記憶を思い起こさせるには充分過ぎるようなモノが多過ぎた。
汗と埃と垢のにおいの漂って来る里村さんの身体。まるで監禁されていた時の自分のよう。監禁、あの時と同じようなシチュエーション。だが、今度はぼくではなくて里村さんが。
気分が悪くなってくる。記憶のすみに堂々とこびりつくカビのような悪夢が、ぼくを離そうとはしない。いらない。そんな記憶は。なのに、どうして必要ない記憶ばかりが偉そうに記憶の真ん中でふんぞり返っているのだ。
不安に怯える里村さんの表情は何処までも弱々しく、哀れだった。ぼくはそんな彼女を救うことが出来ない。そもそも、ぼくだって救われなかったのだ。あの時。たまたま小林さんが連絡をし、怪しんでくれなかったら。
……そうだ、小林さんだ。いや、しかし、どうすればいい。考えが洪水を起こす。ウザイ過去の悪夢が思考を阻む。
ぼくは震える手でスマホを掴み、画面を指でなぞっていく。そして、里村さんに指でなぞった画面を見せる。
「監禁されているのはどこ?」
里村さんはその文字を覗き込むと弱々しく震える手でスマホを受け取り、画面を指でなぞって行く。そして、返って来た答えは、
「わからない。基本的に目隠しされてるから。だけど、普通の一軒家みたい」
普通の一軒家。それはそうだろう。数人の人間を囲んでおくのにアパートの一室は狭すぎる。しかし、一軒家ともなれば、犯人の家族がグルか、そもそもその家族がいなくなっていることがほぼ前提となってくる。
いや、まさか、そんな……。
だが、調べなければ何ともいえないだろう。とはいえ、誰が調べるのだ?
肉の焼ける音が、まるでダイナマイトの導火線が縮んで行く音のように聴こえる。リミットまではそうないのかもしれない。だが、やるしかない、か。やるしかない、のか。
ぼくは焼けた脂身まみれの肉を口に入れた。
えづき、吐きそうになった。
【続く】
確かに経験として、そこにある光景を記憶することが出来るが、問題はその逆、とある光景に関していってしまえば、とてつもなく鮮やかに、そしてセンセーショナルに記憶を呼び起こしてしまうということだ。
さて、その記憶というのは個人によって大きく異なるだろうし、ない人にはまったくないだろう。だが、ぼくにはある。ひとつ、その場の悪臭と光景のすべてが、くさい汗が皮膚を伝うように流れる不快感を。
その光景の中では、なくなったはずの右腕も甦っている。というより、この時を境にぼくの右腕は失われたのだった。
たまき、狂った女。
何かに取り憑かれたような虚無的で不気味な笑みを浮かべる女。あの時の痛み。ヤスリで身体を削られていくあの感触。今でもふとした瞬間に思い出す。思い出したくなどないのに、真っ白な太陽がそれを呼び起こす。
薄暗さの中に取り残され、解放されて浴びた真っ白な陽光がハレーションを伴ってぼくの水晶体を焼くあの経験を忘れることが出来ない。
人間は同じ失敗を繰り返さないために、記憶を保とうとする。だが、すべての記憶が保っておくべきモノではない。忘れるべき記憶というモノも存在する。何の価値もない、むしろトラウマとなってその人の今後の人生を大きく縛りつける悪夢のような記憶が存在する。
そして、そんな記憶に限って、脳はいつまでも覚えている。まるでそれが必要であるといわんばかりに。必要などないのだ。人間の脳には無駄な学習能力が備わっている。
そして、それは時に暴走し、過度に作用し、精神は蝕まれ、人として壊れていく。
そんな異常なまでの働きを制御出来ないなど、人間の脳はもちろん、人間を作った神はもっとバカだと思うのだ。吐き気がする。忘れたい記憶など残しておく価値はないのだ。まるでアンインストールするように、そこにある下らない記憶をデリート、削除出来るように、どうしてしなかったのだ。わからない。
声がこだまする。あの不敵な笑い声がぼくの内耳をこだまする。そこにはないはずの笑い声を、記憶が勝手に再生し、ぼくを苦しめる。すべての音はリバーヴが掛かって、まるで意識は夢の中。だが、そこにあるのは真実の恐怖。
頭が焼け焦げて行く。チカチカする視界。眩しい太陽。薄暗い部屋。真顔。笑顔。遠く近い。距離が一気に詰められ遠ざかる。目まぐるしく変化する。景色。景色が目まぐるしい。公園。家。駅。会社。駅。駅。公園。真っ暗。暗闇。闇。闇。闇……。
助けて。届かない声。闇に飲まれる。飲まれたのではない。声が出ない。身体が否定する。声を出すな、と。腐り落ちていく右腕。ないはずの右腕が痛む。痛い。痛い。神経を少しずつペンチで引き伸ばされ、唐突に切られるような激痛の記憶が頭の中で炸裂する。
くさい汗が何日も風呂に入っていない垢だらけの不潔な身体を伝っていく。口の中は渇いて、ヘドロのような悪臭が口の奥から、鼻の奥から漂って来るような不快感がある。
眩しい日差しが音を伴ってぼくの目を、脳を焼く。まるで肉を焼くような、不愉快な……。
「どうしたの……?」
ハッとして正気に戻った時、ぼくは全身汗でビッショリになっていた。
焼ける牛肉。赤身は消え、既に黒ずみ始めている。微かに食べ頃を過ぎている。だが、脂身は今も尚、弾けては音を立てている。まるで人間の身体を真綿の紐でギリギリと締め上げていくようなそんな音が聴こえて来るような。
目の前には心配そうにぼくのほうへ身を乗り出す里村さんの姿がある。たまきではない。
そうだ、ぼくは今、里村さんと食事を共にしている。だが、その時間も何者かによって設けられ、コントロールされているよう。
たまきではない。
そう、たまきであるはずがないのだ。彼女は今牢獄の向こう側にいるのだから。脱獄なんかしていないはずだ。そこら辺の話があれば、ニュースなり、警察からも何かしらのアプローチはあるだろう。だが、それがない。となると、
たまきではないのだ。
だが、記憶を思い起こさせるには充分過ぎるようなモノが多過ぎた。
汗と埃と垢のにおいの漂って来る里村さんの身体。まるで監禁されていた時の自分のよう。監禁、あの時と同じようなシチュエーション。だが、今度はぼくではなくて里村さんが。
気分が悪くなってくる。記憶のすみに堂々とこびりつくカビのような悪夢が、ぼくを離そうとはしない。いらない。そんな記憶は。なのに、どうして必要ない記憶ばかりが偉そうに記憶の真ん中でふんぞり返っているのだ。
不安に怯える里村さんの表情は何処までも弱々しく、哀れだった。ぼくはそんな彼女を救うことが出来ない。そもそも、ぼくだって救われなかったのだ。あの時。たまたま小林さんが連絡をし、怪しんでくれなかったら。
……そうだ、小林さんだ。いや、しかし、どうすればいい。考えが洪水を起こす。ウザイ過去の悪夢が思考を阻む。
ぼくは震える手でスマホを掴み、画面を指でなぞっていく。そして、里村さんに指でなぞった画面を見せる。
「監禁されているのはどこ?」
里村さんはその文字を覗き込むと弱々しく震える手でスマホを受け取り、画面を指でなぞって行く。そして、返って来た答えは、
「わからない。基本的に目隠しされてるから。だけど、普通の一軒家みたい」
普通の一軒家。それはそうだろう。数人の人間を囲んでおくのにアパートの一室は狭すぎる。しかし、一軒家ともなれば、犯人の家族がグルか、そもそもその家族がいなくなっていることがほぼ前提となってくる。
いや、まさか、そんな……。
だが、調べなければ何ともいえないだろう。とはいえ、誰が調べるのだ?
肉の焼ける音が、まるでダイナマイトの導火線が縮んで行く音のように聴こえる。リミットまではそうないのかもしれない。だが、やるしかない、か。やるしかない、のか。
ぼくは焼けた脂身まみれの肉を口に入れた。
えづき、吐きそうになった。
【続く】