【丑寅は静かに嗤う~桃川】
文字数 2,095文字
弾け飛ぶ火の粉が生命の息吹を上げる。
対面する丑寅と桃川、その表情には郷愁もなければ憎しみもない。尤も、丑寅の「面」には感情の欠片もないのだが。
「どういうこと……?」信じられないことを聴いたといわんばかりに、辰巳の顔に驚きと絶望が広がる。「何でその男が丑寅様なの? 可笑しいじゃない! じゃあ、そこにいる丑寅様は誰だっていうの? 何のためにあたしたちはアンタを襲った……、いや、どうだかわからないけど、どうしてあたしたちに襲わせたっていうの!?」
辰巳は完全に混乱していた。だが、その様を桃川は冷ややかに見詰めている。
「どうして」と桃川。「それを知る必要が何処にあるっていうんだ?」
「え……?」狼狽える辰巳。「だって……、何もかもが可笑しいじゃない。もし仮にアンタが丑寅だとして、どうしてあたしたちと戦う必要があるの? それがわからないのよ!」
「じゃあ、訊くがーー」桃川はいう。「これまで何度となく同じことが起こらなかったとどうしていえるんだ?」
辰巳は疑問をたったひとことで吐き出す。辰巳の身体に震えが見える。潰された手足で身体を支えるのが苦しくなって来たのだろうか。丑寅の面はやや俯いたまま黙っている。
「ど……、どういうこと?」
「少なくとも、何度かは入れ替わっているからな。今のように」
「じゃ、じゃあ、そこにいる丑寅様は……」
「そう、身代わりだよ」丑寅の面はいう。「わたしはことあるごとに丑寅様の身代わりをしてきた。常に丑寅組で丑寅様の一歩うしろで丑寅様のことをお支えして、ね」
「面を使って互いの素性を隠す。ソイツが丑寅が入れ替わるためのカラクリを成立させるためのカラクリだった、ってことだ」
本殿を炎が包む。そろそろ潮時といったところだろう。これ以上話していては己の身を焼くことになるだろう。丑寅、辰巳、そして桃川。三人の背と退路は炎によって焼かれている。
「そういうことだ。そもそも、おれ自身が『三人目』の丑寅なのだからな」と桃川は続ける。
「三人目!?」
桃川の告白に目を見開く辰巳。だが、その口が再び開かれることはなくなった。
まるで最後の力を振り絞るように、辰巳がことばを紡ごうとした、その時だった。
本殿の天井が落ち、辰巳に直撃した。
丑寅と桃川は、落ちた天井を見上げる。もはや猶予は残されていない。すぐにでもこの場全体は炎の塊となり、灰となるだろう。
「……お逃げには、ならないのですか?」
丑寅が問うても、桃川は何も答えない。ただ真っ直ぐに丑寅のことを見詰める。
「……アナタ様だけでも、お逃げ下さい。でなければ、わたしは……」
「おれが生き残れば、お前も生き残る、というのか?」桃川がいえば、丑寅は沈黙する。「お前には、生きたいという気持ちはないのか?」
炎が唸りを上げる。だが、ふたりの意識がそちらへ傾くことはない。ふたりの世界。そこには確かにふたりの世界が広がっている。
「……仰る通りです。だって貴方様は、わたしの恩人であり……」
丑寅は唐突に黙り込む。俯き加減になって。まるで不動の面が感情を顕にしているよう。
「おれが、何だっていうんだ?」
「……いえ、何でもありません」ふと丑寅は面に手を掛ける。「わたしは貴方様の下につけて、幸せでございました。ですが、それも終わりなのですね……」
桃川は何もいわない。何の感情も感じさせない虚無的な表情。死と隣り合わせだという恐怖や絶望、ここまで来たのだという感慨深さ、そういったモノは何処にもない。
硬い地面に丑寅の面が落ちる。落ちた音がゆっくりと残響を作るようにしてたわむ。
「久しぶり、ではないな。ずっと、ここまでつけ回していたのだから」
桃川の目には炎が揺れている。そして、その真ん中に映るのは丑寅の素顔。
お馬。
べらんめえな口調はそこにはないが、そこには確かにお馬の姿があった。
「わざわざ酒場の女主人になりすましてまでして、おれをつけ回すとは、よく出来た侍女だ」
「おことばですが、それは違います」お馬はピシャリという。「いえ、必ずしも違うとはいえないですが、ただ考え方が潰されている、といいましょうか。わたしが都合よく貴方様の前に現れたのではありません。貴方様が都合よくわたしの前に現れた、ということです」
静寂と炎。炎が現実の風景を揺らす。歪める。視界までが歪んでいく。
「……そういうことか」
何かを悟ったような桃川のいい草に、お馬は静かに頷く。そして、お馬は手に持っていた黒の短筒の銃口を桃川へ向ける。
「早く、お逃げ下さい。入り口側に立っておられる貴方様なら、まだちょっとした火傷で済むでしょう。だから……」
「それはおれが『丑寅』だから助けたい、というのか? いっておくが、おれは……」
「わかっております。その必要はないと仰られるのでしょう。わたしもそう思います。……これはわたしの個人的な思いからいったまでです。それに、ちょうど、一発だけ……」
震える親指で、お馬は短筒の撃鉄を起こす。だが、桃川の表情に恐れはない。
「……さようなら」お馬の声は震えている。
銃声。地面を叩く音。
【続く】
対面する丑寅と桃川、その表情には郷愁もなければ憎しみもない。尤も、丑寅の「面」には感情の欠片もないのだが。
「どういうこと……?」信じられないことを聴いたといわんばかりに、辰巳の顔に驚きと絶望が広がる。「何でその男が丑寅様なの? 可笑しいじゃない! じゃあ、そこにいる丑寅様は誰だっていうの? 何のためにあたしたちはアンタを襲った……、いや、どうだかわからないけど、どうしてあたしたちに襲わせたっていうの!?」
辰巳は完全に混乱していた。だが、その様を桃川は冷ややかに見詰めている。
「どうして」と桃川。「それを知る必要が何処にあるっていうんだ?」
「え……?」狼狽える辰巳。「だって……、何もかもが可笑しいじゃない。もし仮にアンタが丑寅だとして、どうしてあたしたちと戦う必要があるの? それがわからないのよ!」
「じゃあ、訊くがーー」桃川はいう。「これまで何度となく同じことが起こらなかったとどうしていえるんだ?」
辰巳は疑問をたったひとことで吐き出す。辰巳の身体に震えが見える。潰された手足で身体を支えるのが苦しくなって来たのだろうか。丑寅の面はやや俯いたまま黙っている。
「ど……、どういうこと?」
「少なくとも、何度かは入れ替わっているからな。今のように」
「じゃ、じゃあ、そこにいる丑寅様は……」
「そう、身代わりだよ」丑寅の面はいう。「わたしはことあるごとに丑寅様の身代わりをしてきた。常に丑寅組で丑寅様の一歩うしろで丑寅様のことをお支えして、ね」
「面を使って互いの素性を隠す。ソイツが丑寅が入れ替わるためのカラクリを成立させるためのカラクリだった、ってことだ」
本殿を炎が包む。そろそろ潮時といったところだろう。これ以上話していては己の身を焼くことになるだろう。丑寅、辰巳、そして桃川。三人の背と退路は炎によって焼かれている。
「そういうことだ。そもそも、おれ自身が『三人目』の丑寅なのだからな」と桃川は続ける。
「三人目!?」
桃川の告白に目を見開く辰巳。だが、その口が再び開かれることはなくなった。
まるで最後の力を振り絞るように、辰巳がことばを紡ごうとした、その時だった。
本殿の天井が落ち、辰巳に直撃した。
丑寅と桃川は、落ちた天井を見上げる。もはや猶予は残されていない。すぐにでもこの場全体は炎の塊となり、灰となるだろう。
「……お逃げには、ならないのですか?」
丑寅が問うても、桃川は何も答えない。ただ真っ直ぐに丑寅のことを見詰める。
「……アナタ様だけでも、お逃げ下さい。でなければ、わたしは……」
「おれが生き残れば、お前も生き残る、というのか?」桃川がいえば、丑寅は沈黙する。「お前には、生きたいという気持ちはないのか?」
炎が唸りを上げる。だが、ふたりの意識がそちらへ傾くことはない。ふたりの世界。そこには確かにふたりの世界が広がっている。
「……仰る通りです。だって貴方様は、わたしの恩人であり……」
丑寅は唐突に黙り込む。俯き加減になって。まるで不動の面が感情を顕にしているよう。
「おれが、何だっていうんだ?」
「……いえ、何でもありません」ふと丑寅は面に手を掛ける。「わたしは貴方様の下につけて、幸せでございました。ですが、それも終わりなのですね……」
桃川は何もいわない。何の感情も感じさせない虚無的な表情。死と隣り合わせだという恐怖や絶望、ここまで来たのだという感慨深さ、そういったモノは何処にもない。
硬い地面に丑寅の面が落ちる。落ちた音がゆっくりと残響を作るようにしてたわむ。
「久しぶり、ではないな。ずっと、ここまでつけ回していたのだから」
桃川の目には炎が揺れている。そして、その真ん中に映るのは丑寅の素顔。
お馬。
べらんめえな口調はそこにはないが、そこには確かにお馬の姿があった。
「わざわざ酒場の女主人になりすましてまでして、おれをつけ回すとは、よく出来た侍女だ」
「おことばですが、それは違います」お馬はピシャリという。「いえ、必ずしも違うとはいえないですが、ただ考え方が潰されている、といいましょうか。わたしが都合よく貴方様の前に現れたのではありません。貴方様が都合よくわたしの前に現れた、ということです」
静寂と炎。炎が現実の風景を揺らす。歪める。視界までが歪んでいく。
「……そういうことか」
何かを悟ったような桃川のいい草に、お馬は静かに頷く。そして、お馬は手に持っていた黒の短筒の銃口を桃川へ向ける。
「早く、お逃げ下さい。入り口側に立っておられる貴方様なら、まだちょっとした火傷で済むでしょう。だから……」
「それはおれが『丑寅』だから助けたい、というのか? いっておくが、おれは……」
「わかっております。その必要はないと仰られるのでしょう。わたしもそう思います。……これはわたしの個人的な思いからいったまでです。それに、ちょうど、一発だけ……」
震える親指で、お馬は短筒の撃鉄を起こす。だが、桃川の表情に恐れはない。
「……さようなら」お馬の声は震えている。
銃声。地面を叩く音。
【続く】