【丑寅は静かに嗤う~余興】
文字数 2,298文字
朝の空気はどこまでも澄んでいる。
大鳥家の中庭では、小鳥のさえずりに混じってささやかな人の声が聴こえる。
大鳥をはじめ、息子の一真に雅、以下彼らに仕える侍たち。またその対面にいるのは、桃川に犬蔵、お雉、お卯乃。そして、朝露で湿った地面を微かに踏み鳴らし、中庭中央で右手に木刀を持ち向かい合うふたりの男の姿ーー
「このような余興に付き合わせてしまって申し訳ありません」牛野がいう。「是非ともアナタ様とお手合わせ願いたくて」
「いえ、別に大丈夫です……」猿田。
牛野の提案ーーそれは、一真、雅と桃川、犬蔵が手合わせする前に、自分と猿田が手合わせすることだった。
もちろん、その手合わせは、四人の手合わせの結果には何も影響はしない単なる余興に過ぎないとのことだった。
だが、いざ牛野の前に立つ猿田の表情は非常に硬い。更にいえば、明らかに自らそうしようといわんばかりに静かにゆっくりと呼吸しており、間違いなく猿田は緊張していることがわかる。
対する牛野は猿田と相対することが出来て嬉しいといわんばかりの笑みを浮かべている。その笑みには無理して笑っているような強張った様子は一切なく、完全にこころの底から笑っているというのがわかる。
「しかしーー」猿田が口を開く。「どうして、わたしとお手合わせしたいと?」
牛野はより一層の明るい笑みを浮かべ、
「ひと目見たその時から、アナタ様が強者だということはわかっておりました。だからこそ、命のやり取りなしでもいいから、互いの剣を交えてみたかったーーそれだけです」
「ほう、そうなんですね。ですが、何故、見ただけでわたしが強者だとわかったのです」
「その立ち振舞いを見ていればわかります。手の所作から足の運びといった体捌きに一切の隙がなく、警戒心を解くことを知らない。奥さまとの旅の最中を襲われて、そこの桃川様にお助け頂いたとのことですが、アナタ様の実力がおありなら、雑魚を二十人斬るくらいなら朝飯を食べる前に余裕でこなせてしまうことかと思いますが」
「まるで見てきたようにいいますね。もちろん、これは皮肉でも何でもなく、大鳥殿が敵を差し向けたといいたいワケでもありませんが、まるで貴殿はわたしのことをはじめから知っていたーーそのように思えてなりません」
猿田の表情は依然として強張っていたが、このことばをいう際は際立って強張っていた。逆に牛野はより表情を緩め、
「いえ、アナタ様のことは数日前に初めて存じ上げまして、それ以前のことは何も」
「そうですか……。それならいいですがね」
「一体、何を話してんだ?」
ふたりのやり取りを見ていた犬蔵がお雉に訊ねる。お雉の顔も猿田と同様に強張っている。お雉はーー
「ふたりにしかわからないこと」
何かを察したようにいう。
「ふたりにしかわからない? でもよ、あのふたりはこの前初めて会ったんだろ? だったら、ふたりだけにしかわからないことなんてねぇんじゃねぇのか?」
「初めて会ったのは確かかもしれません」桃川がいう。「ただ、因縁はあったかもしれない」
「何だよ、因縁て」
「わたしとアナタの因縁みたいな物ですよ」
桃川がそういい放つと、犬蔵は一瞬顔を引き吊らせる。そして、そのままの様子で、
「……何がいいてぇんだよ」
だが、桃川は口許を弛ませるだけで何も答えようとはしない。そんな中、お卯乃はずっと手と手を合わせて念仏を唱えている。
「婆さん、静かにしてくれないか」犬蔵。
「だけども……」
心配そうにいうお卯乃。だが、犬蔵はボコボコに腫れた顔に僅かな笑みを浮かべて、
「心配すんな。あの猿野郎は、どうあがいたって勝っちまうよ」
犬蔵のことばを切り裂くように、中庭に牛野の声が響くーー
「勝負は一度切りです。もちろん、どちらが勝とうと木刀を使っての勝負ですから命を取ることはありません。とはいえ、得物は得物ですから、怪我をすることはあるでしょうが、ね」牛野の不敵な笑み、対して猿田は一切笑うことはない。「では、始めましょうか」
右手に持っている木刀の切先を猿田に向ける牛野ーーそれに合わせて猿田も。牛野が大鳥を見る。大鳥は一度頷くと、「始めッ!」と天まで昇りそうな高らかな開戦の合図を放つ。
火蓋は切られる。牛野は再び猿田に向かい合う。始まって早々の膠着状態。互いが互いの動きを注視している。
ジリッ、ジリッと互いに一歩ずつにじり寄る。だがその切先が動くことはない。
にじり寄り、にじり寄り、互いの切先が切先三寸のところで交わる。まったく動きが見られない両者の攻防。しかし、それはあくまで素人目から見た話だったのかもしれない。それを裏づけるように桃川はふと笑い、
「いい勝負ですね」
と呟く。だが、犬蔵は、
「はぁ? さっきから互いに寄り合ってるだけじゃねぇか」
「寄り合っているだけ、それが果たして何を意味しているか、ということですよ」
そんなふたりのやり取りとは裏腹に猿田と牛野の静かなる攻防は続いている。切先を交わらせ、その先を取らんとするように剣先同士を押し合っている。そんな、ほんの一瞬のことである。次の瞬間にはーー
入り身になった猿田の木刀の刃が牛野の首筋を捉えている。
「あ、どうした!?」
犬蔵が沈黙を破って声を上げる。桃川は声にならない笑いを洩らし、口許を震わせている。それは牛野も同様のよう。
「……流石です。完敗ですね」
牛野のひとことで勝負は決した。
だが、猿田の表情は依然として強張ったまま。それどころか呼吸することすら忘れているようにも見える。
大鳥家の中庭に巻き起こる数多くの感嘆のため息が天に溶けて行ったーー
【続く】
大鳥家の中庭では、小鳥のさえずりに混じってささやかな人の声が聴こえる。
大鳥をはじめ、息子の一真に雅、以下彼らに仕える侍たち。またその対面にいるのは、桃川に犬蔵、お雉、お卯乃。そして、朝露で湿った地面を微かに踏み鳴らし、中庭中央で右手に木刀を持ち向かい合うふたりの男の姿ーー
「このような余興に付き合わせてしまって申し訳ありません」牛野がいう。「是非ともアナタ様とお手合わせ願いたくて」
「いえ、別に大丈夫です……」猿田。
牛野の提案ーーそれは、一真、雅と桃川、犬蔵が手合わせする前に、自分と猿田が手合わせすることだった。
もちろん、その手合わせは、四人の手合わせの結果には何も影響はしない単なる余興に過ぎないとのことだった。
だが、いざ牛野の前に立つ猿田の表情は非常に硬い。更にいえば、明らかに自らそうしようといわんばかりに静かにゆっくりと呼吸しており、間違いなく猿田は緊張していることがわかる。
対する牛野は猿田と相対することが出来て嬉しいといわんばかりの笑みを浮かべている。その笑みには無理して笑っているような強張った様子は一切なく、完全にこころの底から笑っているというのがわかる。
「しかしーー」猿田が口を開く。「どうして、わたしとお手合わせしたいと?」
牛野はより一層の明るい笑みを浮かべ、
「ひと目見たその時から、アナタ様が強者だということはわかっておりました。だからこそ、命のやり取りなしでもいいから、互いの剣を交えてみたかったーーそれだけです」
「ほう、そうなんですね。ですが、何故、見ただけでわたしが強者だとわかったのです」
「その立ち振舞いを見ていればわかります。手の所作から足の運びといった体捌きに一切の隙がなく、警戒心を解くことを知らない。奥さまとの旅の最中を襲われて、そこの桃川様にお助け頂いたとのことですが、アナタ様の実力がおありなら、雑魚を二十人斬るくらいなら朝飯を食べる前に余裕でこなせてしまうことかと思いますが」
「まるで見てきたようにいいますね。もちろん、これは皮肉でも何でもなく、大鳥殿が敵を差し向けたといいたいワケでもありませんが、まるで貴殿はわたしのことをはじめから知っていたーーそのように思えてなりません」
猿田の表情は依然として強張っていたが、このことばをいう際は際立って強張っていた。逆に牛野はより表情を緩め、
「いえ、アナタ様のことは数日前に初めて存じ上げまして、それ以前のことは何も」
「そうですか……。それならいいですがね」
「一体、何を話してんだ?」
ふたりのやり取りを見ていた犬蔵がお雉に訊ねる。お雉の顔も猿田と同様に強張っている。お雉はーー
「ふたりにしかわからないこと」
何かを察したようにいう。
「ふたりにしかわからない? でもよ、あのふたりはこの前初めて会ったんだろ? だったら、ふたりだけにしかわからないことなんてねぇんじゃねぇのか?」
「初めて会ったのは確かかもしれません」桃川がいう。「ただ、因縁はあったかもしれない」
「何だよ、因縁て」
「わたしとアナタの因縁みたいな物ですよ」
桃川がそういい放つと、犬蔵は一瞬顔を引き吊らせる。そして、そのままの様子で、
「……何がいいてぇんだよ」
だが、桃川は口許を弛ませるだけで何も答えようとはしない。そんな中、お卯乃はずっと手と手を合わせて念仏を唱えている。
「婆さん、静かにしてくれないか」犬蔵。
「だけども……」
心配そうにいうお卯乃。だが、犬蔵はボコボコに腫れた顔に僅かな笑みを浮かべて、
「心配すんな。あの猿野郎は、どうあがいたって勝っちまうよ」
犬蔵のことばを切り裂くように、中庭に牛野の声が響くーー
「勝負は一度切りです。もちろん、どちらが勝とうと木刀を使っての勝負ですから命を取ることはありません。とはいえ、得物は得物ですから、怪我をすることはあるでしょうが、ね」牛野の不敵な笑み、対して猿田は一切笑うことはない。「では、始めましょうか」
右手に持っている木刀の切先を猿田に向ける牛野ーーそれに合わせて猿田も。牛野が大鳥を見る。大鳥は一度頷くと、「始めッ!」と天まで昇りそうな高らかな開戦の合図を放つ。
火蓋は切られる。牛野は再び猿田に向かい合う。始まって早々の膠着状態。互いが互いの動きを注視している。
ジリッ、ジリッと互いに一歩ずつにじり寄る。だがその切先が動くことはない。
にじり寄り、にじり寄り、互いの切先が切先三寸のところで交わる。まったく動きが見られない両者の攻防。しかし、それはあくまで素人目から見た話だったのかもしれない。それを裏づけるように桃川はふと笑い、
「いい勝負ですね」
と呟く。だが、犬蔵は、
「はぁ? さっきから互いに寄り合ってるだけじゃねぇか」
「寄り合っているだけ、それが果たして何を意味しているか、ということですよ」
そんなふたりのやり取りとは裏腹に猿田と牛野の静かなる攻防は続いている。切先を交わらせ、その先を取らんとするように剣先同士を押し合っている。そんな、ほんの一瞬のことである。次の瞬間にはーー
入り身になった猿田の木刀の刃が牛野の首筋を捉えている。
「あ、どうした!?」
犬蔵が沈黙を破って声を上げる。桃川は声にならない笑いを洩らし、口許を震わせている。それは牛野も同様のよう。
「……流石です。完敗ですね」
牛野のひとことで勝負は決した。
だが、猿田の表情は依然として強張ったまま。それどころか呼吸することすら忘れているようにも見える。
大鳥家の中庭に巻き起こる数多くの感嘆のため息が天に溶けて行ったーー
【続く】