【孤独な晦日に逃避行】
文字数 3,565文字
真昼の冬天、水晶体に寂れた光景が映る。
大晦日だというのに人通りは少ないし、街ゆく人の殆どがマスクをしている。
ここ一年で、以前はあまりいい印象のなかった黒のマスクをはじめ、カラフルなモノや柄の入ったモノも随分と見られるようになった。
美沙にはそれが不思議でならなかった。が、何でも祐太朗がいうには、
「全世界に感染力の強いウイルスが蔓延している」
とのことだった。が、祐太朗がどんなに説明しようと美沙にはそれがどれほどのことかはわからなかった。美沙はマスクなんかつけないし、凍えるような寒さの中でも半袖の制服にミニスカートのままだったーーそう、これは美沙が亡くなった時に着ていた格好だ。
大原美沙が亡くなったのは、令和元年八月のことだった。そして美沙が亡くなって一年四ヶ月、霊となって二度目の大晦日がやって来た。
が、街に活気はなく、一年の終わりという雰囲気はまったく感じられなかった。美沙はボンヤリとひとり五村のストリートを彷徨いていた。つまらない。美沙は思わず呟いた。
突然、美沙の顔に何かを閃いたような明るさが差した。かと思いきや来た道を戻り始めた。
浮遊霊が移動するのに体力は必要ない。疲れ知らずで移動でき、自然の影響を受けることもないため、目的地までたどり着くのも楽だ。
三〇分後、美沙は目的地に到着した。が、一年半程前まであった人の気配がその家からは感じられず、表札は剥がされ、その横には「空き家」のプレートが掲示されていた。
中に入ってみるも、かつて見られたような家具もなければ、人の姿もなかった。
美沙は外に出て建物を見上げた。何もなく、誰もいなくなったかつての自宅は、まるで冬が訪れたように冷たく寂莫としていた。
美沙は鼻を啜った。別に寒いワケではなかったーーいや、ある意味では寒かったのかもしれない。美沙はひとり、その場を後にした。
それから美沙は五村署に向かった。かつての自宅から五村署までは一時間程度。着いた頃には時計の針は十五時を少し過ぎていた。
警備を掻い潜り、美沙はとあるオフィスに侵入した。雑多な部屋だ。どのデスクもよくわからない資料と文房具で一杯で、デスクに置かれているノートパソコンは汚れに満ちていた。一説によればパソコンのキーボードはトイレの便座より汚いらしい。が、このオフィスはそれ以上に淀み荒んだ雰囲気を醸し出していた。
美沙はオフィスの端で口を開けて寝ているマヌケ面の男の肩を強く叩いた。
「また昼寝なんかして。事件が起こったらどうすんの?」
美沙がそういうと男は寝惚けつつ、
「うるせぇな、どうせーー」かと思いきや男は唐突に声を上げた。「お前、何で!」
「弓永くん」オフィスの奥にいる中年男性がいった。「昼寝なんかしてないで、少しは働いたらどうなのかな?」
寝惚けた男ーー弓永は、上司のひとことを軽くあしらうとマスクを着けてオフィスを後にした。美沙もそれについていく。
「あれぇ、仕事はぁ?」
「うるせぇ。それより何しに来たんだよ」
「暇だから来ちゃった」
「暇だからって……、お前はおれの自己中な彼女じゃねぇんだぞ」
「当たり前ジャン。弓永さんと付き合う変人がいたら見てみたいモン」
「バカいえ。おれはモテるんだ。お前みたいなクソガキにはわからないだろうけどな」
「まぁ、そんなこというのはいいんだけどさ。回りの人、みんな見てるよ」
署内の廊下にいる警官たちは男女関係なくみんな弓永に注目していた。それもそうだろう。署員には美沙は見えないし、美沙の声も聴こえないのだから、弓永が可笑しな人に映るのはいうまでもなかった。
「……何見てんだよ」
弓永がそう威圧すると、署員たちは何事もなかったかのように弓永から視線を剃らした。
「……下らねぇ」舌打ちしつつ弓永はいった。
「日頃の行いが悪いからだよ」
弓永は再度口を開こうとしたが、周りに注意を引かれ、そのまま廊下を遠ざかっていった。
「で、マジで何しに来たんだよ?」
マスクを外した弓永は愛車のリューギを走らせながら美沙に訊ねた。後部座席にひとりで腰掛けた美沙は、
「別に、ただ暇だったから」
「暇なら祐太朗のとこでもいけよ。喜んで迎えてくれるぜ」
「祐太朗も暇じゃないんだよ。弓永さんと違ってね」
祐太朗が暇じゃないのは事実だった。というのも、祐太朗はこの日、村山香緒里と村山充の墓参りにいっていたのだ。詩織はひとりで留守番をしていたが、朝から祐太朗がいないこともあってか、布団にこもって眠っていた。
「……あぁ、アイツ、まだやってたのか」弓永は何かを思い出したようにいった。
「まだって、何やってんの?」
「いや、こっちの話だ。で、どうしたいんだよ。今日一日付き合えってか?」
「だって暇でしょ? 昼寝してるくらいだし」
弓永は特に反論しなかった。そのまま車を飛ばしながら、車内スピーカーとスマホを繋ぎ、署内に電話を繋ぐと、体調が悪いから今日は早上がりするといって、相手の反応を聞くことなくそのまま電話を切ってしまった。
「これで暇になったし、ドライブくらいなら付き合ってやるよ。外は危険でいっぱいだしな」
「まぁ、弓永さんに復讐したい人なんてたくさんいるだろうしね」
「そうじゃねえよ。外はウイルスでいっぱいなんだ。下手に出歩いて感染したくない」
「……そんなにヤバイの? そのウイルス」
「ヤバイなんてもんじゃない。一時は社会生活がストップして大混乱だったし、オリンピックも延期になった。東京都の感染者も日に日に増えてるし、調子こいてもいられねぇんだよ」
「そう……」
「まぁ、不謹慎だけど、ある意味このクソみたいな世の中を霊として漂うのは、生きているよりずっといいかもしれないぜ」
「……そんなことーー」
「ないっていいたいか? 仮に生きて大学にいっても入学式はないし、授業の開始もウイルスの影響で随分と遅れたみたいだぜ。それに授業もキャンパスにいくことなくリモートばかりで友達なんかできやしないし、会ったこともない同級生とグループラインでケンカする始末だそうだ。外に出れば老若男女関係なくクズどもが自分さえよければいいとストリート闊歩している。政治家も自分のことしか考えてないし、どうしてこんな世の中になっちまったんだ。こんな世の中になるなんて、誰が予想したんだ。まったく酷えもんだ。今の世の中、悪霊なんかより、そこら辺を歩く人間のほうがずっと質が悪い。こんなクソみたいな世の中でも、お前は生きたかったか?」
「それは……」美沙は答えに窮した。「でも……、わたしだってできれば生きていたかったよ。例えそんな状況でも生きた人間として自分の人生を歩みたかったし、みんなとも一緒におしゃべりしたり、一緒にご飯を食べたかった。霊になってよかったことなんてーー」
「でもよ、悪いことばかりでもねえだろ?」
美沙はポカンとして弓永のうしろ姿を見つめた。そんな美沙とは裏腹に、フロントミラー越しの弓永の目は笑っていた。
「お前が霊じゃなかったら、こんな風にドライブを楽しむこともできなかった」
美沙は呆然と弓永のことばを聴いていたかと思いきや突然笑い出した。
「何それ。まるでわたしが好きでここまで来たみたいジャン」
「違うのか?」
「違わないけど……」
「なら、いいじゃねえか。で、何処にいきたい?ーーどこへでも連れてってやるよ」
美沙を乗せたリューギは、冷たい陽が照らす五村のストリートを孤独に走った。ドライブは、何時間も続いた。が、弓永はひとことも疲れたといわずに車を運転し続けた。
気づけば辺りはすっかり暗くなっていた。暗闇の中で波の音が聴こえた。弓永は車を停め、エンジンを切った。
「ここなら誰も来ないし、ウイルスの心配もしなくて済むだろうーーいくぜ」
「いくって、ここは?」
「海だ」
「海って……、それはわかるけど……」
「それがわかるなら充分だ。いいからいくぞ」
そういって弓永はリューギを降りて歩き出した。美沙も車を降りて弓永を追い掛けた。
冬の海は寂寥感を波に溶かして緩急自在に折り重なっていた。冷たい潮風が弓永の長い髪を靡かせ、皮膚を打った。美沙は潮風の影響を受けることなく、ただ佇んでいた。
「何か、落ち着くなぁ」美沙はいった。「今、何時?」
腕時計に目を落とす弓永ーー光を受けた時計の文字盤と針は、エメラルド色に輝いていた。
「十一時五七分だ」
「そっか……、今年ももう終わりだね……」
弓永は何も答えなかった。荒ぶる波の音が、ふたりの間に漂う沈黙を掻き消していた。
空白ーー何もないゆったりとした時間が過ぎていく。
「弓永さん」美沙は徐に口を開いた。「ありがとう……、来年もよろしくね」
弓永は照れ臭そうに微かな笑みを浮かべた。
午前零時、鐘の音が波音に混じって静かに響いていた。
大晦日だというのに人通りは少ないし、街ゆく人の殆どがマスクをしている。
ここ一年で、以前はあまりいい印象のなかった黒のマスクをはじめ、カラフルなモノや柄の入ったモノも随分と見られるようになった。
美沙にはそれが不思議でならなかった。が、何でも祐太朗がいうには、
「全世界に感染力の強いウイルスが蔓延している」
とのことだった。が、祐太朗がどんなに説明しようと美沙にはそれがどれほどのことかはわからなかった。美沙はマスクなんかつけないし、凍えるような寒さの中でも半袖の制服にミニスカートのままだったーーそう、これは美沙が亡くなった時に着ていた格好だ。
大原美沙が亡くなったのは、令和元年八月のことだった。そして美沙が亡くなって一年四ヶ月、霊となって二度目の大晦日がやって来た。
が、街に活気はなく、一年の終わりという雰囲気はまったく感じられなかった。美沙はボンヤリとひとり五村のストリートを彷徨いていた。つまらない。美沙は思わず呟いた。
突然、美沙の顔に何かを閃いたような明るさが差した。かと思いきや来た道を戻り始めた。
浮遊霊が移動するのに体力は必要ない。疲れ知らずで移動でき、自然の影響を受けることもないため、目的地までたどり着くのも楽だ。
三〇分後、美沙は目的地に到着した。が、一年半程前まであった人の気配がその家からは感じられず、表札は剥がされ、その横には「空き家」のプレートが掲示されていた。
中に入ってみるも、かつて見られたような家具もなければ、人の姿もなかった。
美沙は外に出て建物を見上げた。何もなく、誰もいなくなったかつての自宅は、まるで冬が訪れたように冷たく寂莫としていた。
美沙は鼻を啜った。別に寒いワケではなかったーーいや、ある意味では寒かったのかもしれない。美沙はひとり、その場を後にした。
それから美沙は五村署に向かった。かつての自宅から五村署までは一時間程度。着いた頃には時計の針は十五時を少し過ぎていた。
警備を掻い潜り、美沙はとあるオフィスに侵入した。雑多な部屋だ。どのデスクもよくわからない資料と文房具で一杯で、デスクに置かれているノートパソコンは汚れに満ちていた。一説によればパソコンのキーボードはトイレの便座より汚いらしい。が、このオフィスはそれ以上に淀み荒んだ雰囲気を醸し出していた。
美沙はオフィスの端で口を開けて寝ているマヌケ面の男の肩を強く叩いた。
「また昼寝なんかして。事件が起こったらどうすんの?」
美沙がそういうと男は寝惚けつつ、
「うるせぇな、どうせーー」かと思いきや男は唐突に声を上げた。「お前、何で!」
「弓永くん」オフィスの奥にいる中年男性がいった。「昼寝なんかしてないで、少しは働いたらどうなのかな?」
寝惚けた男ーー弓永は、上司のひとことを軽くあしらうとマスクを着けてオフィスを後にした。美沙もそれについていく。
「あれぇ、仕事はぁ?」
「うるせぇ。それより何しに来たんだよ」
「暇だから来ちゃった」
「暇だからって……、お前はおれの自己中な彼女じゃねぇんだぞ」
「当たり前ジャン。弓永さんと付き合う変人がいたら見てみたいモン」
「バカいえ。おれはモテるんだ。お前みたいなクソガキにはわからないだろうけどな」
「まぁ、そんなこというのはいいんだけどさ。回りの人、みんな見てるよ」
署内の廊下にいる警官たちは男女関係なくみんな弓永に注目していた。それもそうだろう。署員には美沙は見えないし、美沙の声も聴こえないのだから、弓永が可笑しな人に映るのはいうまでもなかった。
「……何見てんだよ」
弓永がそう威圧すると、署員たちは何事もなかったかのように弓永から視線を剃らした。
「……下らねぇ」舌打ちしつつ弓永はいった。
「日頃の行いが悪いからだよ」
弓永は再度口を開こうとしたが、周りに注意を引かれ、そのまま廊下を遠ざかっていった。
「で、マジで何しに来たんだよ?」
マスクを外した弓永は愛車のリューギを走らせながら美沙に訊ねた。後部座席にひとりで腰掛けた美沙は、
「別に、ただ暇だったから」
「暇なら祐太朗のとこでもいけよ。喜んで迎えてくれるぜ」
「祐太朗も暇じゃないんだよ。弓永さんと違ってね」
祐太朗が暇じゃないのは事実だった。というのも、祐太朗はこの日、村山香緒里と村山充の墓参りにいっていたのだ。詩織はひとりで留守番をしていたが、朝から祐太朗がいないこともあってか、布団にこもって眠っていた。
「……あぁ、アイツ、まだやってたのか」弓永は何かを思い出したようにいった。
「まだって、何やってんの?」
「いや、こっちの話だ。で、どうしたいんだよ。今日一日付き合えってか?」
「だって暇でしょ? 昼寝してるくらいだし」
弓永は特に反論しなかった。そのまま車を飛ばしながら、車内スピーカーとスマホを繋ぎ、署内に電話を繋ぐと、体調が悪いから今日は早上がりするといって、相手の反応を聞くことなくそのまま電話を切ってしまった。
「これで暇になったし、ドライブくらいなら付き合ってやるよ。外は危険でいっぱいだしな」
「まぁ、弓永さんに復讐したい人なんてたくさんいるだろうしね」
「そうじゃねえよ。外はウイルスでいっぱいなんだ。下手に出歩いて感染したくない」
「……そんなにヤバイの? そのウイルス」
「ヤバイなんてもんじゃない。一時は社会生活がストップして大混乱だったし、オリンピックも延期になった。東京都の感染者も日に日に増えてるし、調子こいてもいられねぇんだよ」
「そう……」
「まぁ、不謹慎だけど、ある意味このクソみたいな世の中を霊として漂うのは、生きているよりずっといいかもしれないぜ」
「……そんなことーー」
「ないっていいたいか? 仮に生きて大学にいっても入学式はないし、授業の開始もウイルスの影響で随分と遅れたみたいだぜ。それに授業もキャンパスにいくことなくリモートばかりで友達なんかできやしないし、会ったこともない同級生とグループラインでケンカする始末だそうだ。外に出れば老若男女関係なくクズどもが自分さえよければいいとストリート闊歩している。政治家も自分のことしか考えてないし、どうしてこんな世の中になっちまったんだ。こんな世の中になるなんて、誰が予想したんだ。まったく酷えもんだ。今の世の中、悪霊なんかより、そこら辺を歩く人間のほうがずっと質が悪い。こんなクソみたいな世の中でも、お前は生きたかったか?」
「それは……」美沙は答えに窮した。「でも……、わたしだってできれば生きていたかったよ。例えそんな状況でも生きた人間として自分の人生を歩みたかったし、みんなとも一緒におしゃべりしたり、一緒にご飯を食べたかった。霊になってよかったことなんてーー」
「でもよ、悪いことばかりでもねえだろ?」
美沙はポカンとして弓永のうしろ姿を見つめた。そんな美沙とは裏腹に、フロントミラー越しの弓永の目は笑っていた。
「お前が霊じゃなかったら、こんな風にドライブを楽しむこともできなかった」
美沙は呆然と弓永のことばを聴いていたかと思いきや突然笑い出した。
「何それ。まるでわたしが好きでここまで来たみたいジャン」
「違うのか?」
「違わないけど……」
「なら、いいじゃねえか。で、何処にいきたい?ーーどこへでも連れてってやるよ」
美沙を乗せたリューギは、冷たい陽が照らす五村のストリートを孤独に走った。ドライブは、何時間も続いた。が、弓永はひとことも疲れたといわずに車を運転し続けた。
気づけば辺りはすっかり暗くなっていた。暗闇の中で波の音が聴こえた。弓永は車を停め、エンジンを切った。
「ここなら誰も来ないし、ウイルスの心配もしなくて済むだろうーーいくぜ」
「いくって、ここは?」
「海だ」
「海って……、それはわかるけど……」
「それがわかるなら充分だ。いいからいくぞ」
そういって弓永はリューギを降りて歩き出した。美沙も車を降りて弓永を追い掛けた。
冬の海は寂寥感を波に溶かして緩急自在に折り重なっていた。冷たい潮風が弓永の長い髪を靡かせ、皮膚を打った。美沙は潮風の影響を受けることなく、ただ佇んでいた。
「何か、落ち着くなぁ」美沙はいった。「今、何時?」
腕時計に目を落とす弓永ーー光を受けた時計の文字盤と針は、エメラルド色に輝いていた。
「十一時五七分だ」
「そっか……、今年ももう終わりだね……」
弓永は何も答えなかった。荒ぶる波の音が、ふたりの間に漂う沈黙を掻き消していた。
空白ーー何もないゆったりとした時間が過ぎていく。
「弓永さん」美沙は徐に口を開いた。「ありがとう……、来年もよろしくね」
弓永は照れ臭そうに微かな笑みを浮かべた。
午前零時、鐘の音が波音に混じって静かに響いていた。