【帝王霊~拾~】
文字数 3,017文字
日曜朝の武道館の空気は何処までも澄んでいる気がする。
ぼくはこんな空気が大好きだ。若干の眠気はキツイけど、朝早くから運動すると、それだけで休日そのものが有意義に思えるからいい。
五村市での一件から一週間が経つが、ぼくは何とか不自由なく生活出来ていた。山田先輩からのフォローの連絡はとてもこころ強かったし、いつもはウザったいヤエちゃんのウザ絡みやメッセージも、無性に嬉しく思えた。
それに、友人たちもぼくとヤエちゃんをとても心配してくれて、本当にありがたかった。
田宮に和田、ヤンキー三人組、片山さん、関口、いずみ、そして春奈。みんな、いいヤツだった。もちろん、父さんと母さんも。お陰でぼくも辛い記憶を背負わずに済みそうだった。
だが、同時に心配もあった。
というのも、今回の件が学校側に伝わることでどのような反応があるか、ということだ。
一応、学校には五村署から連絡がいくだろうと弓永さんはいっていたけど、ぼくを巻き込んでしまった件については、学校側から口うるさくいわれたに違いない。
だけど、ヤエちゃんはあくまで被害者。あまり深く責任を追及されることはないと思うし、少なくともぼくが聴いた限りでは、そんな感じがした。更にいえば、
「学校みたいな無責任なヤツラの巣窟じゃ、こんなトラブルは揉み消されるから心配すんな」
と弓永さんがいっていた。あまりいい気はしなかったけど、それが本当なら今回の件が大事になることはないと思う。少なくとも、この件が学内で留まり続けるのであれば。
平日と土曜日が終わり、日曜日。ぼくは川澄武道館の更衣室にて着替えをしていた。
ぼくは少し前からヤエちゃんに誘われて居合を始めていたのだ。
山田先輩は、そこの先輩であり、最近では師匠の久保先生が稽古をつけて下さる時以外は、山田先輩が稽古をつけて下さっていた。
ぼくが更衣室に入った時には、山田先輩は先に着替えを済ませていた。おはようございます、と挨拶をすると、山田先輩は、
「お、おはよう」とギコチナイ感じで答えた。
何か変な感じがした。先輩にしては態度というか姿勢が固すぎる。いつもならもっとフランクに接してくれるはずなのに。
だが、考えてみたらそれも無理はない気がした。だって、あんな事件があった後なのだから、先輩もぼくに対してどう接していいのかわからないのに違いない。だから、
「この前は芝居に誘って頂き、ありがとうございました」
とぼくは何事もなかったように頭を下げた。あくまで平然と。でないと、先輩もぼくに対して変に気を使ってしまいそうだし、気も休まらないだろうから。とはいえ、当分は難しいか。
それよりも今は稽古だ。
まだ始めて間もなく、身体の捌きもろくに出来やしないけれど、久保先生や山田先輩の理論的な説明、教え方が非常に面白かったこと、そして何よりもお二方の鋭い刀捌きにこころを奪われてしまったことで、自分もあんな風になりたい、とぼくは居合に夢中になっていた。
ぼくは漸く慣れ始めてきた手つきで着替えを済ませると、急いで剣道場へと向かった。
会のメンバーは既に集まっており、みな軽いアップを始めていた。ぼくも荷物を置いて早速身体を温めるために軽くストレッチをする。
「シンちゃん、やっほ」
ヤエちゃんが軽く手を上げて会釈して来る。ぼくもそれに軽く応えて、
「おはよう」
「ちゃんと来たね!」
「他にやりたいこともないし、やっぱりここに来たほうが落ち着くから」
「そうだよねぇ。和雅くんには挨拶した?」
ぼくは、うんと答えた。するとヤエちゃんは、ぼくの耳許に口を近づける。ぼくは一瞬ドキッとしてしまった。いくら自分より圧倒的に年上で、相手は自分の担任だとはいえ、やはり大人の女性にそういうことをされるとどうしていいか、わからなくなる。
「な、何すんだよ!」
ぼくは慌ててヤエちゃんから離れた。ヤエちゃんはそんなぼくを見てイタズラに笑った。
「何、恥ずかしがってんの! 相変わらず、可愛いねぇ」
正直、この人が教師をやっている世の中は狂っていると思うし、この人が逮捕されないのも不思議でならない。まぁ……、とはいえ逮捕されて欲しくないし、ヤエちゃんが傷ついた姿なんて見たくもないのだけど。
とか考えていたら、またもやヤエちゃんはぼくのほうへ身体を寄せてきた。
「な、何だよ……!」
「ううん、何か、ちょっと今日の和雅くん、よそよそしいなぁって」
それはぼくも感じたことだけど、それは先輩なりの事情があってのことだろう、とぼくは自分の考えを話した。ヤエちゃんは、
「うん……、それならいいんだけどね……」
と何処か先輩のことを心配しているようだった。何が不安なのか訊ねてみると、
「うん……、わたしの気のせいかもしれないしね。気にしないで……!」
何処か煮え切らないヤエちゃんの態度に、ぼくも戸惑いを覚えた。
稽古が始まった。その日もやはり山田先輩指導のもと、ぼくとヤエちゃんが稽古をつけて頂くこととなった。ぼくとヤエちゃんが並んで座り、先輩と向かって三角形になる。
稽古開始。緊張感が高まる。だが、ヤエちゃんの抱いた違和感は現実となった。
明らかに先輩の刀の抜きが下手なのだ。
ぼくのような初心者がこういうことをいうのは恐れ多いのだけど、この日の先輩は、明らかに初心者レベルでギコチナかった。刀に掛ける手は力いっぱいで、刀を抜くのも鞘に引っ掛けながら音をガタガタ立てていた。
初心者レベルの抜き。冗談にもほどがある。いつもの先輩なら、ちょっと刀に手を掛けたかと思えば、次の瞬間には刀が抜けているという、そんな恐ろしいほどの早さと正確さをもって刀を抜くのだけど、今日の先輩にはそれがまったくなかった。というより、いいところがまったくないといって過言じゃなかった。
ぼくがアドバイスを求めても、いつもの理路整然とした説明ではなく、見て覚えて。先輩はその「見て覚えて」という指導法を何よりも嫌っているはず。なのに、どうしてそんなことをいったのだろうか。違和感だらけだった。
それに気になったのは、先輩のヤエちゃんを見る目だ。ネットリしている、というか。蛇が獲物を睨むような、そんな冷たさがあるようにぼくには思えた。
その後、山田先輩は他の先輩と組太刀をすることとなったのだけど、遠目で見た感じでいえば、その木刀の振りは最悪だった。大振りで身体が木刀に持っていかれている。
だが、山田先輩本人はやる気がないだとか、ふざけているといった様子はなく、むしろ必死に技術を取り繕おうとしているようだった。
結局、この日は煮え切らないまま稽古は終了した。不完全燃焼のまま更衣室で着替えを済ませると、ぼくは早々に武道館を出た。
だが、そこでスマホを忘れて来たことに気づき、更衣室へと戻ることにした。
ぼくは更衣室のドアに手を掛けた。
「キミ、一体誰なんだい?」
そんな声が聴こえた。久保先生の声だった。ぼくはドアを軽く開けて中を確かめた。
久保先生の顔は真剣そのものだった。そして、久保先生の対面に立っていたのは、
山田先輩だった。
やはり、久保先生も今日の山田先輩の立ち振舞いに違和感を抱いたのだろう。にしても、一体誰なのか、とは。そんな誰かが、
……確かにそう訊きたくなるのもわかる。
今日の先輩はまるで別人のようだ。
ぼくは更衣室のドア際で、おふたりの会話に聞き耳を立てた。
【続く】
ぼくはこんな空気が大好きだ。若干の眠気はキツイけど、朝早くから運動すると、それだけで休日そのものが有意義に思えるからいい。
五村市での一件から一週間が経つが、ぼくは何とか不自由なく生活出来ていた。山田先輩からのフォローの連絡はとてもこころ強かったし、いつもはウザったいヤエちゃんのウザ絡みやメッセージも、無性に嬉しく思えた。
それに、友人たちもぼくとヤエちゃんをとても心配してくれて、本当にありがたかった。
田宮に和田、ヤンキー三人組、片山さん、関口、いずみ、そして春奈。みんな、いいヤツだった。もちろん、父さんと母さんも。お陰でぼくも辛い記憶を背負わずに済みそうだった。
だが、同時に心配もあった。
というのも、今回の件が学校側に伝わることでどのような反応があるか、ということだ。
一応、学校には五村署から連絡がいくだろうと弓永さんはいっていたけど、ぼくを巻き込んでしまった件については、学校側から口うるさくいわれたに違いない。
だけど、ヤエちゃんはあくまで被害者。あまり深く責任を追及されることはないと思うし、少なくともぼくが聴いた限りでは、そんな感じがした。更にいえば、
「学校みたいな無責任なヤツラの巣窟じゃ、こんなトラブルは揉み消されるから心配すんな」
と弓永さんがいっていた。あまりいい気はしなかったけど、それが本当なら今回の件が大事になることはないと思う。少なくとも、この件が学内で留まり続けるのであれば。
平日と土曜日が終わり、日曜日。ぼくは川澄武道館の更衣室にて着替えをしていた。
ぼくは少し前からヤエちゃんに誘われて居合を始めていたのだ。
山田先輩は、そこの先輩であり、最近では師匠の久保先生が稽古をつけて下さる時以外は、山田先輩が稽古をつけて下さっていた。
ぼくが更衣室に入った時には、山田先輩は先に着替えを済ませていた。おはようございます、と挨拶をすると、山田先輩は、
「お、おはよう」とギコチナイ感じで答えた。
何か変な感じがした。先輩にしては態度というか姿勢が固すぎる。いつもならもっとフランクに接してくれるはずなのに。
だが、考えてみたらそれも無理はない気がした。だって、あんな事件があった後なのだから、先輩もぼくに対してどう接していいのかわからないのに違いない。だから、
「この前は芝居に誘って頂き、ありがとうございました」
とぼくは何事もなかったように頭を下げた。あくまで平然と。でないと、先輩もぼくに対して変に気を使ってしまいそうだし、気も休まらないだろうから。とはいえ、当分は難しいか。
それよりも今は稽古だ。
まだ始めて間もなく、身体の捌きもろくに出来やしないけれど、久保先生や山田先輩の理論的な説明、教え方が非常に面白かったこと、そして何よりもお二方の鋭い刀捌きにこころを奪われてしまったことで、自分もあんな風になりたい、とぼくは居合に夢中になっていた。
ぼくは漸く慣れ始めてきた手つきで着替えを済ませると、急いで剣道場へと向かった。
会のメンバーは既に集まっており、みな軽いアップを始めていた。ぼくも荷物を置いて早速身体を温めるために軽くストレッチをする。
「シンちゃん、やっほ」
ヤエちゃんが軽く手を上げて会釈して来る。ぼくもそれに軽く応えて、
「おはよう」
「ちゃんと来たね!」
「他にやりたいこともないし、やっぱりここに来たほうが落ち着くから」
「そうだよねぇ。和雅くんには挨拶した?」
ぼくは、うんと答えた。するとヤエちゃんは、ぼくの耳許に口を近づける。ぼくは一瞬ドキッとしてしまった。いくら自分より圧倒的に年上で、相手は自分の担任だとはいえ、やはり大人の女性にそういうことをされるとどうしていいか、わからなくなる。
「な、何すんだよ!」
ぼくは慌ててヤエちゃんから離れた。ヤエちゃんはそんなぼくを見てイタズラに笑った。
「何、恥ずかしがってんの! 相変わらず、可愛いねぇ」
正直、この人が教師をやっている世の中は狂っていると思うし、この人が逮捕されないのも不思議でならない。まぁ……、とはいえ逮捕されて欲しくないし、ヤエちゃんが傷ついた姿なんて見たくもないのだけど。
とか考えていたら、またもやヤエちゃんはぼくのほうへ身体を寄せてきた。
「な、何だよ……!」
「ううん、何か、ちょっと今日の和雅くん、よそよそしいなぁって」
それはぼくも感じたことだけど、それは先輩なりの事情があってのことだろう、とぼくは自分の考えを話した。ヤエちゃんは、
「うん……、それならいいんだけどね……」
と何処か先輩のことを心配しているようだった。何が不安なのか訊ねてみると、
「うん……、わたしの気のせいかもしれないしね。気にしないで……!」
何処か煮え切らないヤエちゃんの態度に、ぼくも戸惑いを覚えた。
稽古が始まった。その日もやはり山田先輩指導のもと、ぼくとヤエちゃんが稽古をつけて頂くこととなった。ぼくとヤエちゃんが並んで座り、先輩と向かって三角形になる。
稽古開始。緊張感が高まる。だが、ヤエちゃんの抱いた違和感は現実となった。
明らかに先輩の刀の抜きが下手なのだ。
ぼくのような初心者がこういうことをいうのは恐れ多いのだけど、この日の先輩は、明らかに初心者レベルでギコチナかった。刀に掛ける手は力いっぱいで、刀を抜くのも鞘に引っ掛けながら音をガタガタ立てていた。
初心者レベルの抜き。冗談にもほどがある。いつもの先輩なら、ちょっと刀に手を掛けたかと思えば、次の瞬間には刀が抜けているという、そんな恐ろしいほどの早さと正確さをもって刀を抜くのだけど、今日の先輩にはそれがまったくなかった。というより、いいところがまったくないといって過言じゃなかった。
ぼくがアドバイスを求めても、いつもの理路整然とした説明ではなく、見て覚えて。先輩はその「見て覚えて」という指導法を何よりも嫌っているはず。なのに、どうしてそんなことをいったのだろうか。違和感だらけだった。
それに気になったのは、先輩のヤエちゃんを見る目だ。ネットリしている、というか。蛇が獲物を睨むような、そんな冷たさがあるようにぼくには思えた。
その後、山田先輩は他の先輩と組太刀をすることとなったのだけど、遠目で見た感じでいえば、その木刀の振りは最悪だった。大振りで身体が木刀に持っていかれている。
だが、山田先輩本人はやる気がないだとか、ふざけているといった様子はなく、むしろ必死に技術を取り繕おうとしているようだった。
結局、この日は煮え切らないまま稽古は終了した。不完全燃焼のまま更衣室で着替えを済ませると、ぼくは早々に武道館を出た。
だが、そこでスマホを忘れて来たことに気づき、更衣室へと戻ることにした。
ぼくは更衣室のドアに手を掛けた。
「キミ、一体誰なんだい?」
そんな声が聴こえた。久保先生の声だった。ぼくはドアを軽く開けて中を確かめた。
久保先生の顔は真剣そのものだった。そして、久保先生の対面に立っていたのは、
山田先輩だった。
やはり、久保先生も今日の山田先輩の立ち振舞いに違和感を抱いたのだろう。にしても、一体誰なのか、とは。そんな誰かが、
……確かにそう訊きたくなるのもわかる。
今日の先輩はまるで別人のようだ。
ぼくは更衣室のドア際で、おふたりの会話に聞き耳を立てた。
【続く】