【いろは歌地獄旅~恵美子の純情~】
文字数 2,354文字
気持ちが爆発しそうになる時がある。
そういう時は岡か浜辺にでも駆け込んで思い切り叫ぶことが出来ればそれだけで充分気持ちがいいのだろうけど、そういうことが出来るタイプの人間と出来ないタイプの人間がいる。
暑くてダルい夏の昼間。須藤恵美子は扇風機の前に座ってひたすらに暑いといい続けている。高校二年生。受験、あるいは就職活動までまだ一年ほどは余裕がある。
だが、そんなこと今の恵美子にはどうでも良かった。それよりも今はウンザリするほど暑くて今にも頭がオーバーヒートしそう。
こんなダラけた姿、学校では見せることはない。学校では地味で、真面目な子、ということで恵美子は通っている。本当のことをいえば、もっと破目を外して楽しみたいけど、やはり他人の目というのが気になる年頃。そういうことも中々にしづらい。
恵美子は、容姿はというとそこまで悪くはない。いや、むしろいいほうなのだが、如何せん地味で目立たず、所謂『陽キャ』たちに交ざるコミュ力もなければ、積極的に行動することも出来ないでいた。
「恵美子! 買い物行ってきて!」
台所のほうから母の声が聴こえて来る。恵美子は「えー……」とネガティブな姿勢をもって母親のお願いをそれとなく拒否しようとした。
だが、そんなことは当たり前のように無理なワケで、すぐさまバッグと財布を持たされてTシャツにハーフパンツ姿のまま家から追い出されてしまった。
兄のお下がりのボロボロの自転車の前かごにバッグを放り込み、自転車で走り出す。ギコギコうるさい。油を差さないとこれはよろしくないだろう。スピードは出ないし頭はゆだる。何だってこんなことをしなければならないのだ。恵美子はボーっとしながら走る。
「危ないッ!」
突然そんな声が聴こえて脇を見ると、そこには全速力で走る車が一台。恵美子の姿を見てブレーキを踏み、軋むホイールとゴムがアスファルトに擦れる音がけたたましく響く。
ブレーキ。きかない。メンテをサボった代償がこんなところで来るとは。油が切れている時点で考え直すべきだった。
だが、後悔してももう遅い。
あぁ、自分は死ぬんだ。ふと思った。
が、何かが恵美子の身体をぶっ飛ばした。
タイヤが擦れる音と、その少しあとにエンジンがストップし、車からドライバーが現れる。
身体は勢い良く地面に叩きつけられる。夏ということもあって薄着だったせいで、身体のあちこちに擦り傷が出来ている。
「いったーい……」
痛いだけではない。何だかやたらと身体が重い。まるで何かが覆い被さっているようだ。
「大丈夫かい?」
慌てたドライバーがいう。
「え、えぇ、大丈夫……」
突然ぶっ飛ばされて身体中が痛くて仕方なかったが、ここで強く出られるほど恵美子は気の強いタイプではなかった。いや、それどころではなかった。恵美子は気づく。
自分の上に男が覆い被さっていることに。
「え、えぇ!?」
もはや困惑するしかなかった。見た感じはヒョロヒョロでもなくガタイがいいワケでもない。きっと、危ないと声を掛けてきたのは彼だろう、と恵美子は思った。
「大丈夫だった?」
覆い被さった男が顔を上げて優しくそう訊ねて来る。見た感じ、イケメンではないが、ブサメンという感じでもない。フツメン。だが、そんなフツメンも今この瞬間にはどんなタレントやアイドルよりもカッコよく見えてしまった。
恵美子は顔を赤くする。そもそもが暑いのだから、暑さのせいだろうといえなくもなかったが、そういった暑さとはまた別個の熱を、恵美子は感じていたようだ。
「は、はい、あ、ありがとう……ッ!」
礼をいうと、男は先に立ち上がり恵美子に手を差し出す。恵美子は顔をそむけつつ、男の手を取り、立ち上がる。グッと引き上げられる感覚。細くもなければ太くもない男の腕の筋肉が一気に引き締まる。それが堪らなかった。
恵美子は立ち上がっても尚、男の顔を見れなかった。それからドライバーや男と色々と話をしたが、恵美子はそれどころではなく、何を話したかなどまったく覚えていなかった。
気づけば、真っ赤な夕陽が空に浮かんでいる。恵美子は公園のジャングルジムの一番上に座り、遠くを眺めている。
ここまで何をしていたか、殆ど覚えていない。あの出来事以降、恵美子は男の名前を聞くことなく立ち去ってしまった。怪我はあったし、変な後遺症が残るのも正直心配だったが、今の感じでは特に何もない。ただ、ドライバーの人は、何かあったら連絡を下さいと連絡先を渡してきたからまだマシだった。病院での治療費や診察費は全額負担するから、とのことだ。
だが、あのフツメンとはそれっきりだった。名前も知らなければ、年も知らない。何処に住んでるかもわからない。
もどかしい気分。出来ることなら叫びたい気分だった。だが、恵美子は恥ずかしさに負けて叫びはしなかった。ただ、赤く染まった空と雲の流れを目で追い掛けるばかり。
顔が真っ赤に染まる。
擦り傷がヒリヒリする。だが、その痛みが、あの時覆い被さっていた男の身体の感触を呼び起こし、そこまで不快な気はしなかった。
恵美子はボーッとしていた。でも、ふとした瞬間に笑みが溢れて堪らなかった。
恵美子は身体を擦った。笑みを浮かべながら。遠い空の向こうを眺めながら。
こころが景色に溶けていくようだった。
ちなみに、帰宅は暗くなってからになった。当然怒られた。買い物はしてないし、ボロボロだったし、自転車はお釈迦にするし。轢かれ掛けたことはいわなかったから余計だった。
だが、恵美子はふと笑みを溢した。ヒドイ出来事だったけど、あまり悪い気はしなかった。
その笑みのせいで、恵美子は余計に怒られた。でも、こころは晴れやかだった。
また会えるかなぁ。
こころの中でそう呟いた。
そういう時は岡か浜辺にでも駆け込んで思い切り叫ぶことが出来ればそれだけで充分気持ちがいいのだろうけど、そういうことが出来るタイプの人間と出来ないタイプの人間がいる。
暑くてダルい夏の昼間。須藤恵美子は扇風機の前に座ってひたすらに暑いといい続けている。高校二年生。受験、あるいは就職活動までまだ一年ほどは余裕がある。
だが、そんなこと今の恵美子にはどうでも良かった。それよりも今はウンザリするほど暑くて今にも頭がオーバーヒートしそう。
こんなダラけた姿、学校では見せることはない。学校では地味で、真面目な子、ということで恵美子は通っている。本当のことをいえば、もっと破目を外して楽しみたいけど、やはり他人の目というのが気になる年頃。そういうことも中々にしづらい。
恵美子は、容姿はというとそこまで悪くはない。いや、むしろいいほうなのだが、如何せん地味で目立たず、所謂『陽キャ』たちに交ざるコミュ力もなければ、積極的に行動することも出来ないでいた。
「恵美子! 買い物行ってきて!」
台所のほうから母の声が聴こえて来る。恵美子は「えー……」とネガティブな姿勢をもって母親のお願いをそれとなく拒否しようとした。
だが、そんなことは当たり前のように無理なワケで、すぐさまバッグと財布を持たされてTシャツにハーフパンツ姿のまま家から追い出されてしまった。
兄のお下がりのボロボロの自転車の前かごにバッグを放り込み、自転車で走り出す。ギコギコうるさい。油を差さないとこれはよろしくないだろう。スピードは出ないし頭はゆだる。何だってこんなことをしなければならないのだ。恵美子はボーっとしながら走る。
「危ないッ!」
突然そんな声が聴こえて脇を見ると、そこには全速力で走る車が一台。恵美子の姿を見てブレーキを踏み、軋むホイールとゴムがアスファルトに擦れる音がけたたましく響く。
ブレーキ。きかない。メンテをサボった代償がこんなところで来るとは。油が切れている時点で考え直すべきだった。
だが、後悔してももう遅い。
あぁ、自分は死ぬんだ。ふと思った。
が、何かが恵美子の身体をぶっ飛ばした。
タイヤが擦れる音と、その少しあとにエンジンがストップし、車からドライバーが現れる。
身体は勢い良く地面に叩きつけられる。夏ということもあって薄着だったせいで、身体のあちこちに擦り傷が出来ている。
「いったーい……」
痛いだけではない。何だかやたらと身体が重い。まるで何かが覆い被さっているようだ。
「大丈夫かい?」
慌てたドライバーがいう。
「え、えぇ、大丈夫……」
突然ぶっ飛ばされて身体中が痛くて仕方なかったが、ここで強く出られるほど恵美子は気の強いタイプではなかった。いや、それどころではなかった。恵美子は気づく。
自分の上に男が覆い被さっていることに。
「え、えぇ!?」
もはや困惑するしかなかった。見た感じはヒョロヒョロでもなくガタイがいいワケでもない。きっと、危ないと声を掛けてきたのは彼だろう、と恵美子は思った。
「大丈夫だった?」
覆い被さった男が顔を上げて優しくそう訊ねて来る。見た感じ、イケメンではないが、ブサメンという感じでもない。フツメン。だが、そんなフツメンも今この瞬間にはどんなタレントやアイドルよりもカッコよく見えてしまった。
恵美子は顔を赤くする。そもそもが暑いのだから、暑さのせいだろうといえなくもなかったが、そういった暑さとはまた別個の熱を、恵美子は感じていたようだ。
「は、はい、あ、ありがとう……ッ!」
礼をいうと、男は先に立ち上がり恵美子に手を差し出す。恵美子は顔をそむけつつ、男の手を取り、立ち上がる。グッと引き上げられる感覚。細くもなければ太くもない男の腕の筋肉が一気に引き締まる。それが堪らなかった。
恵美子は立ち上がっても尚、男の顔を見れなかった。それからドライバーや男と色々と話をしたが、恵美子はそれどころではなく、何を話したかなどまったく覚えていなかった。
気づけば、真っ赤な夕陽が空に浮かんでいる。恵美子は公園のジャングルジムの一番上に座り、遠くを眺めている。
ここまで何をしていたか、殆ど覚えていない。あの出来事以降、恵美子は男の名前を聞くことなく立ち去ってしまった。怪我はあったし、変な後遺症が残るのも正直心配だったが、今の感じでは特に何もない。ただ、ドライバーの人は、何かあったら連絡を下さいと連絡先を渡してきたからまだマシだった。病院での治療費や診察費は全額負担するから、とのことだ。
だが、あのフツメンとはそれっきりだった。名前も知らなければ、年も知らない。何処に住んでるかもわからない。
もどかしい気分。出来ることなら叫びたい気分だった。だが、恵美子は恥ずかしさに負けて叫びはしなかった。ただ、赤く染まった空と雲の流れを目で追い掛けるばかり。
顔が真っ赤に染まる。
擦り傷がヒリヒリする。だが、その痛みが、あの時覆い被さっていた男の身体の感触を呼び起こし、そこまで不快な気はしなかった。
恵美子はボーッとしていた。でも、ふとした瞬間に笑みが溢れて堪らなかった。
恵美子は身体を擦った。笑みを浮かべながら。遠い空の向こうを眺めながら。
こころが景色に溶けていくようだった。
ちなみに、帰宅は暗くなってからになった。当然怒られた。買い物はしてないし、ボロボロだったし、自転車はお釈迦にするし。轢かれ掛けたことはいわなかったから余計だった。
だが、恵美子はふと笑みを溢した。ヒドイ出来事だったけど、あまり悪い気はしなかった。
その笑みのせいで、恵美子は余計に怒られた。でも、こころは晴れやかだった。
また会えるかなぁ。
こころの中でそう呟いた。