【西陽の当たる地獄花~弐~】
文字数 2,783文字
荒廃した街道、牛馬は顔の崩れた地獄の犬の引っ張る車に乗って、頬杖をつきながら外の景色を眺めている。
あの世とはいえ、見た感じは元いた世界とあまり変わらない。
ただ、所々で蜃気楼のような靄が発生していたり、痩せ細った裸の亡者が彼方此方をさ迷っていたり、目の飛び出た舌の長い野良犬が人の死肉を貪っていたり、草原のようになった針に串刺しになりながらもがき続ける人間たちに、血のような赤い沼に浸かって呻く者たち、足が地面に飲み込まれて木のようになった者たちが作る森と、現世では見られないような悪夢の光景が広がっている。
牛馬は懐から紙を一枚取り出し、眺める。が、そこには何も書いてはいない。
「この手紙は目を通し次第、文面が消える。内容はしっかりと覚えておくのだぞ」
悩顕のことば。悩顕とは、牛馬が廃墟のような室内で出会った背の低い僧侶のことだ。あの廃墟のような室内は、悩顕が身を置く寺院で、その名も『獄楽寺』。極楽と地獄の間にあり、餓鬼道の外れにある唯一の寺である。
牛馬は真っ白になった紙をくしゃくしゃと丸めて車の外に捨て、引き続きおぞましいあの世の光景に目を凝らす。
そうしている内に、牛馬の目に巨大な門が飛び込んで来る。門には「羅刹門」と書かれている。ここは地獄にて蠢く悪鬼羅刹の類いが腹を空かしながら生きた獲物を探す地獄の穢多の溜まり場だと悩顕はそう説明していた。
門の内側は、荒廃した屋敷や長屋が広がっている。そして、目を光らせた亡者たち。敷地内は、羅刹門から有刺鉄線で覆われた塀で囲われており、何者の侵入、脱走をも拒んでいる。
本来、羅刹門には結界が張られており、内外問わず、出入りは出来ないようになっている。が、地獄の犬たちはその結界を通ることができ、牛馬も悩顕から渡された絵馬のお陰で結界を通ることが出来るようになっている。
羅刹門の内側、荒廃した通りの真ん中で車は停まる。犬たちはこぼれ落ちそうな目をひんむいて、その場に座り込んでしまう。
「ここが地獄の一丁目、か」
ため息をついて牛馬は車を降りる。砂ぼこりの舞う地獄の一丁目からは、生命の息吹はまったく感じられないーー尤も、この世界そのものに生など存在しないのだが。
牛馬は犬をその場に、羅刹の中を歩き出す。風の音以外、牛馬の耳には届かない。が、牛馬は神経を尖らせたまま、視線のみを動かして羅刹の中を右に左に確かめる。
誰もいない。
牛馬はその場に落ちていた石を拾い上げ、朽ち果てた建物に向かって投げる。石は音を立てて朽ちた木に弾かれる。タンッという乾いた音。牛馬は耳を澄ませる。
何も聴こえない。
牛馬はもうひとつ石を拾い上げ、今度は別の建物に向かって投げる。石はやはり乾いた音を立てながら乾いた大地に跳弾する。
変化はない。
「……あのクソ坊主、ハメやがったか?」
牛馬がそう呟く。そう思うのも無理もない。これでは悩顕のいっていたことと余りにも話が違っている。これではここに来た意味がない。だが、用件を済ませるまでは羅刹門から外へ出ることは出来ないと決まっていた。何故なら、牛馬を羅刹門に誘った犬たちは、牛馬が仕事を終えずに門外へ出ようとしたら、その場で牛馬を襲って殺すよう命令を受けているから。
牛馬は着物の袖内に両手を隠して、道のど真ん中を歩き続ける。
突然、牛馬は足を止める。
耳を澄まし、神経を研ぎ澄まし、足を止めて異変を感じ取ったかのように自分の右斜めうしろに振り返ることなく目付をする。
木枯らしがビュウと吹く。風の音だけが虚しく響く。牛馬の腰がゆっくりと落ちる。
何かが牛馬目掛けて飛ぶ。
牛馬は瞬時に腰を切り、左足を大きく引く。
次の瞬間には、牛馬の目の前には真っ二つになった餓鬼がひとり倒れている。
かと思いきや、さっきまで木枯らしの音しかしなかった街の中に呻き声のようなおぞましい何かの音が聴こえて来る。
牛馬が辺りを見回すと、そこには腕や目、足や鼻、耳といった身体の一部を欠損した紫色の肌を持つ餓鬼、餓鬼、餓鬼の姿ーー。
餓鬼どもはみな一様に不気味に笑いながらヨダレをすすり、牛馬のことを獲物をなめ回すようにじっと見つめている。
牛馬は瞬時に抜いて餓鬼のひとりを切りつけた刀を横に構え、ニヤリと笑って見せる。
「来いよ。まとめて殺してやる」
悩顕が牛馬に頼んだことーーそれとはまた別の話ではあるが、牛馬が今ここにいるのは、その為の試練として、この羅刹門の中に巣くう餓鬼どもを始末するためだった。
「さっさと片付けて、酒に肴にと洒落込もうじゃねえか。来やがれクソ餓鬼」
牛馬の叫びに呼応するように餓鬼どもは牛馬に飛び掛かる。が、牛馬はそれに動じるどころか、笑いながら群がる餓鬼どもを切る、切るーー切り続ける。その姿はまるで鬼神のよう。相手は餓鬼道に落ちた亡者。
とはいえ、そんなことはお構い無しといわんばかりに、まるで殺しを楽しむかのように容赦なく牛馬は餓鬼どもを切り捨てていく。
餓鬼どもの緑色の血が辺りを深緑に染め上げる。斬られた餓鬼どもは自分の肉体が苦痛にまみれていることを知らないかのように笑みを浮かべたまま、笑い声を上げている。
羅刹の中でひとつの死体の山を築き上げられるのに、大した時間は掛からなかった。
積み上がる緑色の塊は、餓鬼どもの死体。牛馬はこころからの醜い笑みを浮かべたまま、大血振りで、刀身にベットリとついた緑色の血を一気に振り払う。乾いた黄土の地面に緑の血液が一直線に点状の軌跡を作り上げる。そのまま瞬時に刀を鞘に納めーー
「おめぇ、いい腕じゃねぇか」
突然、朽ち果てた長屋の一室から低く歪んだ声が聴こえ、牛馬はそちらに注目する。
「誰だ?」
牛馬は今納めたばかりの刀の鯉口を切り、柄掛かりする。
「まぁ、そう慌てるなって。鯉口をしっかりと締めなよ」長屋の主がいう。
「ふざけるな。テメェが誰で、どういう魂胆でおれに話し掛けているかもわからねぇのに、どうしてそんなことができるよ」
牛馬は小指からゆっくりと柄を締めていく。
「それもそうだな。待ってろ、外に出る」
その声が聴こえて来たかと思うと、今度は地面を揺るがすかのような地鳴りが聴こえて来る。同時に地面も揺らぎ、そこらに積み上げられていた廃材の一角が大きな音を立てて崩れ落ちる。
狂気に満ちた牛馬の表情が死んでいく。刀の柄に掛かった右手は波のように穏やかだ。
一瞬、地鳴りが止まる。かと思いきや、ピシャッと長屋の一室の障子が横にぶっ飛び、一室の奥からとてつもなく大きな何かが現れる。が、牛馬の表情と全身の筋肉が緊張することはない。
「一切動じず、か。やるな。でも心配しなくていい。オメェさんに危害を加えるつもりはねぇんだ」
そういって長屋の一室から出て来るは、藁の腰巻き一丁の皮をひんむいたような巨大なーー
【続く】
あの世とはいえ、見た感じは元いた世界とあまり変わらない。
ただ、所々で蜃気楼のような靄が発生していたり、痩せ細った裸の亡者が彼方此方をさ迷っていたり、目の飛び出た舌の長い野良犬が人の死肉を貪っていたり、草原のようになった針に串刺しになりながらもがき続ける人間たちに、血のような赤い沼に浸かって呻く者たち、足が地面に飲み込まれて木のようになった者たちが作る森と、現世では見られないような悪夢の光景が広がっている。
牛馬は懐から紙を一枚取り出し、眺める。が、そこには何も書いてはいない。
「この手紙は目を通し次第、文面が消える。内容はしっかりと覚えておくのだぞ」
悩顕のことば。悩顕とは、牛馬が廃墟のような室内で出会った背の低い僧侶のことだ。あの廃墟のような室内は、悩顕が身を置く寺院で、その名も『獄楽寺』。極楽と地獄の間にあり、餓鬼道の外れにある唯一の寺である。
牛馬は真っ白になった紙をくしゃくしゃと丸めて車の外に捨て、引き続きおぞましいあの世の光景に目を凝らす。
そうしている内に、牛馬の目に巨大な門が飛び込んで来る。門には「羅刹門」と書かれている。ここは地獄にて蠢く悪鬼羅刹の類いが腹を空かしながら生きた獲物を探す地獄の穢多の溜まり場だと悩顕はそう説明していた。
門の内側は、荒廃した屋敷や長屋が広がっている。そして、目を光らせた亡者たち。敷地内は、羅刹門から有刺鉄線で覆われた塀で囲われており、何者の侵入、脱走をも拒んでいる。
本来、羅刹門には結界が張られており、内外問わず、出入りは出来ないようになっている。が、地獄の犬たちはその結界を通ることができ、牛馬も悩顕から渡された絵馬のお陰で結界を通ることが出来るようになっている。
羅刹門の内側、荒廃した通りの真ん中で車は停まる。犬たちはこぼれ落ちそうな目をひんむいて、その場に座り込んでしまう。
「ここが地獄の一丁目、か」
ため息をついて牛馬は車を降りる。砂ぼこりの舞う地獄の一丁目からは、生命の息吹はまったく感じられないーー尤も、この世界そのものに生など存在しないのだが。
牛馬は犬をその場に、羅刹の中を歩き出す。風の音以外、牛馬の耳には届かない。が、牛馬は神経を尖らせたまま、視線のみを動かして羅刹の中を右に左に確かめる。
誰もいない。
牛馬はその場に落ちていた石を拾い上げ、朽ち果てた建物に向かって投げる。石は音を立てて朽ちた木に弾かれる。タンッという乾いた音。牛馬は耳を澄ませる。
何も聴こえない。
牛馬はもうひとつ石を拾い上げ、今度は別の建物に向かって投げる。石はやはり乾いた音を立てながら乾いた大地に跳弾する。
変化はない。
「……あのクソ坊主、ハメやがったか?」
牛馬がそう呟く。そう思うのも無理もない。これでは悩顕のいっていたことと余りにも話が違っている。これではここに来た意味がない。だが、用件を済ませるまでは羅刹門から外へ出ることは出来ないと決まっていた。何故なら、牛馬を羅刹門に誘った犬たちは、牛馬が仕事を終えずに門外へ出ようとしたら、その場で牛馬を襲って殺すよう命令を受けているから。
牛馬は着物の袖内に両手を隠して、道のど真ん中を歩き続ける。
突然、牛馬は足を止める。
耳を澄まし、神経を研ぎ澄まし、足を止めて異変を感じ取ったかのように自分の右斜めうしろに振り返ることなく目付をする。
木枯らしがビュウと吹く。風の音だけが虚しく響く。牛馬の腰がゆっくりと落ちる。
何かが牛馬目掛けて飛ぶ。
牛馬は瞬時に腰を切り、左足を大きく引く。
次の瞬間には、牛馬の目の前には真っ二つになった餓鬼がひとり倒れている。
かと思いきや、さっきまで木枯らしの音しかしなかった街の中に呻き声のようなおぞましい何かの音が聴こえて来る。
牛馬が辺りを見回すと、そこには腕や目、足や鼻、耳といった身体の一部を欠損した紫色の肌を持つ餓鬼、餓鬼、餓鬼の姿ーー。
餓鬼どもはみな一様に不気味に笑いながらヨダレをすすり、牛馬のことを獲物をなめ回すようにじっと見つめている。
牛馬は瞬時に抜いて餓鬼のひとりを切りつけた刀を横に構え、ニヤリと笑って見せる。
「来いよ。まとめて殺してやる」
悩顕が牛馬に頼んだことーーそれとはまた別の話ではあるが、牛馬が今ここにいるのは、その為の試練として、この羅刹門の中に巣くう餓鬼どもを始末するためだった。
「さっさと片付けて、酒に肴にと洒落込もうじゃねえか。来やがれクソ餓鬼」
牛馬の叫びに呼応するように餓鬼どもは牛馬に飛び掛かる。が、牛馬はそれに動じるどころか、笑いながら群がる餓鬼どもを切る、切るーー切り続ける。その姿はまるで鬼神のよう。相手は餓鬼道に落ちた亡者。
とはいえ、そんなことはお構い無しといわんばかりに、まるで殺しを楽しむかのように容赦なく牛馬は餓鬼どもを切り捨てていく。
餓鬼どもの緑色の血が辺りを深緑に染め上げる。斬られた餓鬼どもは自分の肉体が苦痛にまみれていることを知らないかのように笑みを浮かべたまま、笑い声を上げている。
羅刹の中でひとつの死体の山を築き上げられるのに、大した時間は掛からなかった。
積み上がる緑色の塊は、餓鬼どもの死体。牛馬はこころからの醜い笑みを浮かべたまま、大血振りで、刀身にベットリとついた緑色の血を一気に振り払う。乾いた黄土の地面に緑の血液が一直線に点状の軌跡を作り上げる。そのまま瞬時に刀を鞘に納めーー
「おめぇ、いい腕じゃねぇか」
突然、朽ち果てた長屋の一室から低く歪んだ声が聴こえ、牛馬はそちらに注目する。
「誰だ?」
牛馬は今納めたばかりの刀の鯉口を切り、柄掛かりする。
「まぁ、そう慌てるなって。鯉口をしっかりと締めなよ」長屋の主がいう。
「ふざけるな。テメェが誰で、どういう魂胆でおれに話し掛けているかもわからねぇのに、どうしてそんなことができるよ」
牛馬は小指からゆっくりと柄を締めていく。
「それもそうだな。待ってろ、外に出る」
その声が聴こえて来たかと思うと、今度は地面を揺るがすかのような地鳴りが聴こえて来る。同時に地面も揺らぎ、そこらに積み上げられていた廃材の一角が大きな音を立てて崩れ落ちる。
狂気に満ちた牛馬の表情が死んでいく。刀の柄に掛かった右手は波のように穏やかだ。
一瞬、地鳴りが止まる。かと思いきや、ピシャッと長屋の一室の障子が横にぶっ飛び、一室の奥からとてつもなく大きな何かが現れる。が、牛馬の表情と全身の筋肉が緊張することはない。
「一切動じず、か。やるな。でも心配しなくていい。オメェさんに危害を加えるつもりはねぇんだ」
そういって長屋の一室から出て来るは、藁の腰巻き一丁の皮をひんむいたような巨大なーー
【続く】