【いろは歌地獄旅~畜生どもの岡場所~】
文字数 2,446文字
どんな人生にも失敗は付き物だ。
そんなことはわかっている。だが、失敗が重なると、ふと何かの弾みで足を踏み外すことがある。それはおれがそうだったーー
室内は男のにおいで充満していた。腐敗した汗のにおいに、おれはにおいを感じる能力を失い掛けていた。吐き気がする。
見渡す限り、男、男ーー男。
男の花園とかいうと阿鼻叫喚な光景しか頭に浮かばないだろうが、牢屋敷の男牢の光景なんてこんなモンだろう。
川越藩牢屋敷は高沢町にある。牢屋敷とはいえ、屋敷の中には刑場もあるため、その広さは結構なモノである。徳川が江戸に居を構えてから少しして立てられた牢屋敷であるとのことらしく、それを証明するかのように表面は砂ぼこりにまみれ、色は日光でハゲ落ちている。
おれがここに入るのは、もう何度目かもわからない。そうでなくとも、おれは川越に来る前に何度か投獄遠島されており、おれの額には島帰りの墨が入れられている。そして、その墨はおれの額に「犬」と刻んでいる。
おれは生まれが卑しく、親のことも知らない。即ち、おれには名前がない。勿論、学もないため字なんか読めやしない。
だからこれまで名前を訊かれても「ない」と答えていたのだが、数回の遠島で額に「犬」と刻まれてからは色んなヤツに、
「お前、犬じゃねぇか!」
といわれるようになった。まぁ、大抵は笑われて終わりなのだが、おれとしてはこの「犬」というのを結構気に入っていたりする。
ただ、遠島された経験は勿論、これまで何度となく牢には入ったとはいえ、やはり牢に入れられるのは慣れることはない。
厠の掃除は殆どされず、小便と大便の入り交じり、胃の中身が少しずつ込み上げて来るような不快感の伴う悪臭はいうまでもなく、水浴びも数日に一度で、どいつもこいつも罪人臭くて仕方がない。この世の地獄とは、まさしくこの男牢のことをいうのだろう。
牢内にいるのはおれを含めて八人。ひとりは牢名主の『以蔵』で、後の六人は名前も知らない穀潰しの悪人ばかりだ。
牢名主というのは、いうまでもなく牢内を取り仕切る親分で、牢名主に逆らえば集団で暴行されて死、あとは牢名主から見張り番に、
「卒中で死んだ」
と告げられて終わり。取り調べなどされない。こんな穢多や非人にも劣るような罪人の死など、牢番はおろか、奉行所もまともには取り扱ってはくれない。即ち、牢内で孤立することは死を意味する、ということだ。
「おう、新入り、こっちへ来いや」
以蔵がおれを呼んだ。ブクブク太ったデカイ図体を手下六人に手足と肩を揉ませている。
「あっしでございますか?」おれは自分を指差していった。
「他に誰がいるってんだ。さっさと来い」
おれは以蔵のいわれた通り、ゆっくりと以蔵の元へ行き、縮こまって以蔵の前に立った。
「オメェ、その額の『犬』ってのは何だい」
「へぇ、前に信州のほうにいた頃に何度か遠島されまして、その墨でごぜぇます」
「ほう、島帰りか。何をした」
おれは適当な罪状をでっち上げていった。が、以蔵は頷きながら、
「ほう、そうか。ご苦労なこった。川越に来たのは最近か? 何で牢に入れられた」
おれは更に話をでっち上げ、川越に来たのは三日前で、財布を摺られて無一文になったこともあって、かっぱらいをやり、牢に入ることになったと答えた。以蔵はーー
「そうかい、大変だったな。おめぇ、名前は何てんだい?」
「へぇ、『犬吉』と申しやす」
「ほう、犬吉か。しかし、おめぇ、随分といい身体してんじゃねぇか。おれの子分にしてやるよ」おれが頭を掻きながらペコペコと頷くと、「おっし、じゃあ決まりだ。じゃあ、犬吉、早速だがおめぇのそのデケェ図体で、おれの身体を揉んではくれねぇか?」
おれはそれを快諾した。
「じゃあ、決まりだ。どけ!」
以蔵は力づくで自分の身体を揉んでいる手下たちをはね除けた。撥ね飛ばされた手下たちは引き吊った笑みを浮かべていたが、その口許がひくひくと痙攣していた。
「さぁ、やってもらおうか」
おれはすぐさま以蔵の裏に回り、以蔵の肩や腕を強く揉みほぐした。以蔵は如何にも気持ち良さそうな声を上げて、
「おぉ、中々上手ぇじゃねぇか。もっとやれ」
とご満悦な様子だった。おれは、更に強く身体を揉みほぐしながら、
「そういって頂けると嬉しいですね」
おれが愛想笑いをしていると、手下どもが何処か冷ややかな目線でおれを見ていた。かなりキツイ状況下ではあったが、ちょうど以蔵の首もとを揉んでいる最中になって、おれは突然「アッ!」と大声を上げた。
おれの声に手下たちがおののく。
「な、何だよ」
手下のひとりがいう。だが、おれは以蔵から手を離しつつ、
「いえ、ちょっとイヤなことを思い出してしまいましてねぇ」
すると手下たちは、
「何だよ、脅かすなよ」とため息をつきつつ以蔵に向かって、「親分、この野郎、どうしてやりましょうか?」
と訊ねた。だが、以蔵は何も答えなかった。かと思いきや、以蔵は無表情のままその場に倒れてしまった。慌てふためく手下たち。
「オメェ、何した!?」
と訊ねられるが、おれは何もしてないといった。だが、それはウソだった。
おれは大声を上げると同時に以蔵の首に正面に向かって力を掛けてへし折ったのだ。骨の折れる音はおれの声に掻き消されて有耶無耶。まずバレることはない。
「おいっ! 静かにしろ」
おれの大声を聞いて牢番が気だるそうに顔を見せた。おれは倒れた以蔵を飛び越えて格子のもとへと走ると、両手で格子を強く握り締め、格子と格子の間から顔を出すと、
「牢名主殿が卒中で亡くなられました!」
といった。牢番は、そんなバカなとおれのことばを信用していないようだったが、倒れている牢名主を目の当たりにして、すぐさま牢の戸を開けると、牢名主の元へと駆け寄った。
おれは清々しい気分で以蔵の死に慌てふためく手下と牢番たちを見て、大きくため息をついた。これでまたひとつ、仕事が終わったのだ。
牢内の喧騒が夜の霧の中へ消えていった。
そんなことはわかっている。だが、失敗が重なると、ふと何かの弾みで足を踏み外すことがある。それはおれがそうだったーー
室内は男のにおいで充満していた。腐敗した汗のにおいに、おれはにおいを感じる能力を失い掛けていた。吐き気がする。
見渡す限り、男、男ーー男。
男の花園とかいうと阿鼻叫喚な光景しか頭に浮かばないだろうが、牢屋敷の男牢の光景なんてこんなモンだろう。
川越藩牢屋敷は高沢町にある。牢屋敷とはいえ、屋敷の中には刑場もあるため、その広さは結構なモノである。徳川が江戸に居を構えてから少しして立てられた牢屋敷であるとのことらしく、それを証明するかのように表面は砂ぼこりにまみれ、色は日光でハゲ落ちている。
おれがここに入るのは、もう何度目かもわからない。そうでなくとも、おれは川越に来る前に何度か投獄遠島されており、おれの額には島帰りの墨が入れられている。そして、その墨はおれの額に「犬」と刻んでいる。
おれは生まれが卑しく、親のことも知らない。即ち、おれには名前がない。勿論、学もないため字なんか読めやしない。
だからこれまで名前を訊かれても「ない」と答えていたのだが、数回の遠島で額に「犬」と刻まれてからは色んなヤツに、
「お前、犬じゃねぇか!」
といわれるようになった。まぁ、大抵は笑われて終わりなのだが、おれとしてはこの「犬」というのを結構気に入っていたりする。
ただ、遠島された経験は勿論、これまで何度となく牢には入ったとはいえ、やはり牢に入れられるのは慣れることはない。
厠の掃除は殆どされず、小便と大便の入り交じり、胃の中身が少しずつ込み上げて来るような不快感の伴う悪臭はいうまでもなく、水浴びも数日に一度で、どいつもこいつも罪人臭くて仕方がない。この世の地獄とは、まさしくこの男牢のことをいうのだろう。
牢内にいるのはおれを含めて八人。ひとりは牢名主の『以蔵』で、後の六人は名前も知らない穀潰しの悪人ばかりだ。
牢名主というのは、いうまでもなく牢内を取り仕切る親分で、牢名主に逆らえば集団で暴行されて死、あとは牢名主から見張り番に、
「卒中で死んだ」
と告げられて終わり。取り調べなどされない。こんな穢多や非人にも劣るような罪人の死など、牢番はおろか、奉行所もまともには取り扱ってはくれない。即ち、牢内で孤立することは死を意味する、ということだ。
「おう、新入り、こっちへ来いや」
以蔵がおれを呼んだ。ブクブク太ったデカイ図体を手下六人に手足と肩を揉ませている。
「あっしでございますか?」おれは自分を指差していった。
「他に誰がいるってんだ。さっさと来い」
おれは以蔵のいわれた通り、ゆっくりと以蔵の元へ行き、縮こまって以蔵の前に立った。
「オメェ、その額の『犬』ってのは何だい」
「へぇ、前に信州のほうにいた頃に何度か遠島されまして、その墨でごぜぇます」
「ほう、島帰りか。何をした」
おれは適当な罪状をでっち上げていった。が、以蔵は頷きながら、
「ほう、そうか。ご苦労なこった。川越に来たのは最近か? 何で牢に入れられた」
おれは更に話をでっち上げ、川越に来たのは三日前で、財布を摺られて無一文になったこともあって、かっぱらいをやり、牢に入ることになったと答えた。以蔵はーー
「そうかい、大変だったな。おめぇ、名前は何てんだい?」
「へぇ、『犬吉』と申しやす」
「ほう、犬吉か。しかし、おめぇ、随分といい身体してんじゃねぇか。おれの子分にしてやるよ」おれが頭を掻きながらペコペコと頷くと、「おっし、じゃあ決まりだ。じゃあ、犬吉、早速だがおめぇのそのデケェ図体で、おれの身体を揉んではくれねぇか?」
おれはそれを快諾した。
「じゃあ、決まりだ。どけ!」
以蔵は力づくで自分の身体を揉んでいる手下たちをはね除けた。撥ね飛ばされた手下たちは引き吊った笑みを浮かべていたが、その口許がひくひくと痙攣していた。
「さぁ、やってもらおうか」
おれはすぐさま以蔵の裏に回り、以蔵の肩や腕を強く揉みほぐした。以蔵は如何にも気持ち良さそうな声を上げて、
「おぉ、中々上手ぇじゃねぇか。もっとやれ」
とご満悦な様子だった。おれは、更に強く身体を揉みほぐしながら、
「そういって頂けると嬉しいですね」
おれが愛想笑いをしていると、手下どもが何処か冷ややかな目線でおれを見ていた。かなりキツイ状況下ではあったが、ちょうど以蔵の首もとを揉んでいる最中になって、おれは突然「アッ!」と大声を上げた。
おれの声に手下たちがおののく。
「な、何だよ」
手下のひとりがいう。だが、おれは以蔵から手を離しつつ、
「いえ、ちょっとイヤなことを思い出してしまいましてねぇ」
すると手下たちは、
「何だよ、脅かすなよ」とため息をつきつつ以蔵に向かって、「親分、この野郎、どうしてやりましょうか?」
と訊ねた。だが、以蔵は何も答えなかった。かと思いきや、以蔵は無表情のままその場に倒れてしまった。慌てふためく手下たち。
「オメェ、何した!?」
と訊ねられるが、おれは何もしてないといった。だが、それはウソだった。
おれは大声を上げると同時に以蔵の首に正面に向かって力を掛けてへし折ったのだ。骨の折れる音はおれの声に掻き消されて有耶無耶。まずバレることはない。
「おいっ! 静かにしろ」
おれの大声を聞いて牢番が気だるそうに顔を見せた。おれは倒れた以蔵を飛び越えて格子のもとへと走ると、両手で格子を強く握り締め、格子と格子の間から顔を出すと、
「牢名主殿が卒中で亡くなられました!」
といった。牢番は、そんなバカなとおれのことばを信用していないようだったが、倒れている牢名主を目の当たりにして、すぐさま牢の戸を開けると、牢名主の元へと駆け寄った。
おれは清々しい気分で以蔵の死に慌てふためく手下と牢番たちを見て、大きくため息をついた。これでまたひとつ、仕事が終わったのだ。
牢内の喧騒が夜の霧の中へ消えていった。