【丑寅は静かに嗤う~復讐】
文字数 2,092文字
不気味な笑い声が湿った空気を震わせる。
降りしきる雨の中で魑魅魍魎の不気味な笑い声が入り交じる。まるで洗い流すことの出来ないドス黒い鮮血のように。
桃川の顔に笑みが浮かんでいる。頬を伝って流れ落ちる雨は、天から噴き出す血しぶき。
「何がそんなに可笑しい?」
良顕は不愉快そうに顔を歪めていう。
「懐かしいなぁ。でもまさか、この年になってあの時の盗賊からまた銭を貰うことになるとは思わなかった」
良顕は不敵に微笑む。
「あぁ……、そうだったな」
「丑寅、おねこ、そしておれ。役者は揃った。さぁ、因縁を絶ち切ろうぜ」
「待って」力なく、お雉はいう。「どうして……、どうして兄上は十二鬼面に……?」
「簡単なことだ。畜生のはらわたを食い破るために、自らその口の中に飲まれただけ」
「じゃあ……」
「そう。復讐だ。最初は、な。ただ、復讐心のために突き動かされた中で、おれは確実に愉悦を感じていた。今は太り肥えていっている十二鬼面も、その実、骨、筋肉、はらわたは確実に腐っていっている。ここまで何人を殺し、何人を騙し、何人を争わせて来たか。その光景を見るのが堪らなく楽しかった。そして、あの夜だ。あの夜も土砂降りだったーー」
あの夜、即ち桃川が土砂降りの中で辰巳、坤、戌亥と対決し、滝に飲まれて行った夜。
「あぁすることは始めから決まっていた。お馬に計画を話し、お馬は何もいわずに従ってくれた。そして、おれは丑寅の面を外して、侵入者を装って自分の手下たちを何人も、何人も。築いたモノがあっという間に崩れて行く様を見るのは楽しかった。諸行無常。信頼も組も壊れるのは一瞬だった。だからおれは弓を引いた」
「それはつまり……、自分の快楽のためにひとつの組を潰したってこと……?」
お雉の顔は引き吊っている。まるで絶望と恐怖の糸に顔を引っ張られているよう。桃川は突然、霧が降り立ったようにうっすらと笑い、
「……悪いか?」
もはやそこにいたのは復讐の鬼となった兄ではなかった。死と狂気に狂った悪鬼であり羅刹だった。人の肉を喰らい、こころを喰らう魔物そのものだった。
「……じゃあ、猿ちゃんも、お羊も、犬蔵も、すべてはアンタの楽しみのために死んでいったってことなの……?」
「……そういうことだ」
唇を噛むお雉。その噛む力は強すぎて、今にも皮膚が切れてしまいそうだ。お雉にことばはない。化け物となった兄を前に、もはや何もいえないのかもしれない。
幾多の血が流れた。真っ赤に染まった血の敷物は魍魎たちの通り道。それを囲うのは犠牲になった者たちの亡骸のみ。死という魔物は血のにおいのする者に引き付けられる。血のにおいを振り撒く者は死を呼び込み、周りの者を地獄へ葬る。だが、いずれはその本人も死という魔物に食い殺されることとなる。
だが、今はその時ではない。桃川は今、死に魅入られている。死はまだ桃川の前に赤い道を帯びて行く。幾多の屍を残して。
桃川は刀を抜く。刀身に良顕の姿が映る。その姿はまるで丑寅の面を被ったかつての姿のよう。だが、今は痩せ細り、殺し合うだけの体力は残されていないように見える。
ぬかるんだ道、泥を踏み締めながら桃川は良顕へと近づいていく。ネチャっという音。泥水を跳ね上げると、ガラスが割れたような音がする。袴の裾が泥で汚れて行く。そして、草履を履いた足も。もはや洗っても落ちやしないほどに、桃川の足許は汚れてしまっている。
良顕の顔は笑っている。だが、その口許は糸で引いたように引き吊っている。雨水で濡れた手足はブルブルと震えている。
走り出す桃川。泥に足を取られながら、荒い息を吐いて良顕のほうへと向かって行く。その顔は喜びに満ち満ちている。
桃川は大きく上段に振り被る。
悲鳴。
か細い老人の悲鳴。
泥濘に溜まった水が大きく跳ね上がる。そこには痩せ細った情けない老人の姿がある。尻餅をつき、手で自らの身を庇うひ弱な老人の姿がそこにある。そこにはもはや、かつて丑寅と呼ばれ、猛威を奮った盗賊の頭の姿はなかった。
桃川は刀を降ろす。
ぬかるんだ泥の中で、良顕はゆっくりと目を開いてかざした手のひらの向こう側にいる桃川を見る。だらりと腕を落とした死神が立っている。再び悲鳴を上げると、良顕は両ひざを泥につけて、更には額を地面にこすりつける。
「……助けてくれ。こんなこといっても何も変わらないだろうが、わたしには……!」
ボロ雑巾のようになった老人が、鬼の前にてひざをついての命乞いをする。声には涙が入り交じっている。身体は強張り震えている。
だが、桃川は刀の切先を良顕の首筋へと容赦なく突きつける。その目からは一切の感情が感じられず、虚無的な色が伺える。
初代と三代目、その殺し合いはいとも簡単に決した。といっても、初代はもはや現役を退いた痩せた素人でしかなかった。現役の人殺しである三代目の敵ではなかった。
桃川は八相に刀を構える。良顕は小さく命乞いをするばかりで、抵抗する様子はない。
突然、桃川の目に光が宿る。
「ゆっくりと刀を下ろして」とお雉。
桃川の首に鋭く尖ったかんざしが突きつけられていた。
【続く】
降りしきる雨の中で魑魅魍魎の不気味な笑い声が入り交じる。まるで洗い流すことの出来ないドス黒い鮮血のように。
桃川の顔に笑みが浮かんでいる。頬を伝って流れ落ちる雨は、天から噴き出す血しぶき。
「何がそんなに可笑しい?」
良顕は不愉快そうに顔を歪めていう。
「懐かしいなぁ。でもまさか、この年になってあの時の盗賊からまた銭を貰うことになるとは思わなかった」
良顕は不敵に微笑む。
「あぁ……、そうだったな」
「丑寅、おねこ、そしておれ。役者は揃った。さぁ、因縁を絶ち切ろうぜ」
「待って」力なく、お雉はいう。「どうして……、どうして兄上は十二鬼面に……?」
「簡単なことだ。畜生のはらわたを食い破るために、自らその口の中に飲まれただけ」
「じゃあ……」
「そう。復讐だ。最初は、な。ただ、復讐心のために突き動かされた中で、おれは確実に愉悦を感じていた。今は太り肥えていっている十二鬼面も、その実、骨、筋肉、はらわたは確実に腐っていっている。ここまで何人を殺し、何人を騙し、何人を争わせて来たか。その光景を見るのが堪らなく楽しかった。そして、あの夜だ。あの夜も土砂降りだったーー」
あの夜、即ち桃川が土砂降りの中で辰巳、坤、戌亥と対決し、滝に飲まれて行った夜。
「あぁすることは始めから決まっていた。お馬に計画を話し、お馬は何もいわずに従ってくれた。そして、おれは丑寅の面を外して、侵入者を装って自分の手下たちを何人も、何人も。築いたモノがあっという間に崩れて行く様を見るのは楽しかった。諸行無常。信頼も組も壊れるのは一瞬だった。だからおれは弓を引いた」
「それはつまり……、自分の快楽のためにひとつの組を潰したってこと……?」
お雉の顔は引き吊っている。まるで絶望と恐怖の糸に顔を引っ張られているよう。桃川は突然、霧が降り立ったようにうっすらと笑い、
「……悪いか?」
もはやそこにいたのは復讐の鬼となった兄ではなかった。死と狂気に狂った悪鬼であり羅刹だった。人の肉を喰らい、こころを喰らう魔物そのものだった。
「……じゃあ、猿ちゃんも、お羊も、犬蔵も、すべてはアンタの楽しみのために死んでいったってことなの……?」
「……そういうことだ」
唇を噛むお雉。その噛む力は強すぎて、今にも皮膚が切れてしまいそうだ。お雉にことばはない。化け物となった兄を前に、もはや何もいえないのかもしれない。
幾多の血が流れた。真っ赤に染まった血の敷物は魍魎たちの通り道。それを囲うのは犠牲になった者たちの亡骸のみ。死という魔物は血のにおいのする者に引き付けられる。血のにおいを振り撒く者は死を呼び込み、周りの者を地獄へ葬る。だが、いずれはその本人も死という魔物に食い殺されることとなる。
だが、今はその時ではない。桃川は今、死に魅入られている。死はまだ桃川の前に赤い道を帯びて行く。幾多の屍を残して。
桃川は刀を抜く。刀身に良顕の姿が映る。その姿はまるで丑寅の面を被ったかつての姿のよう。だが、今は痩せ細り、殺し合うだけの体力は残されていないように見える。
ぬかるんだ道、泥を踏み締めながら桃川は良顕へと近づいていく。ネチャっという音。泥水を跳ね上げると、ガラスが割れたような音がする。袴の裾が泥で汚れて行く。そして、草履を履いた足も。もはや洗っても落ちやしないほどに、桃川の足許は汚れてしまっている。
良顕の顔は笑っている。だが、その口許は糸で引いたように引き吊っている。雨水で濡れた手足はブルブルと震えている。
走り出す桃川。泥に足を取られながら、荒い息を吐いて良顕のほうへと向かって行く。その顔は喜びに満ち満ちている。
桃川は大きく上段に振り被る。
悲鳴。
か細い老人の悲鳴。
泥濘に溜まった水が大きく跳ね上がる。そこには痩せ細った情けない老人の姿がある。尻餅をつき、手で自らの身を庇うひ弱な老人の姿がそこにある。そこにはもはや、かつて丑寅と呼ばれ、猛威を奮った盗賊の頭の姿はなかった。
桃川は刀を降ろす。
ぬかるんだ泥の中で、良顕はゆっくりと目を開いてかざした手のひらの向こう側にいる桃川を見る。だらりと腕を落とした死神が立っている。再び悲鳴を上げると、良顕は両ひざを泥につけて、更には額を地面にこすりつける。
「……助けてくれ。こんなこといっても何も変わらないだろうが、わたしには……!」
ボロ雑巾のようになった老人が、鬼の前にてひざをついての命乞いをする。声には涙が入り交じっている。身体は強張り震えている。
だが、桃川は刀の切先を良顕の首筋へと容赦なく突きつける。その目からは一切の感情が感じられず、虚無的な色が伺える。
初代と三代目、その殺し合いはいとも簡単に決した。といっても、初代はもはや現役を退いた痩せた素人でしかなかった。現役の人殺しである三代目の敵ではなかった。
桃川は八相に刀を構える。良顕は小さく命乞いをするばかりで、抵抗する様子はない。
突然、桃川の目に光が宿る。
「ゆっくりと刀を下ろして」とお雉。
桃川の首に鋭く尖ったかんざしが突きつけられていた。
【続く】