【冷たい墓石で鬼は泣く~伍~】
文字数 2,110文字
川のせせらぎを聴くと、イヤな記憶が蘇って来そうになる。
そういわんばかりに、お雉は河原の石に腰掛けて川面を見つめている。おそらく今のお雉を見たところで、男たちは欲望に忠実に、かつ溺れたりすることはないだろう。
冷たい雪はいつしか止み、そこら辺一帯が白銀の世界へと変貌している。冷たい空気がそこら中に蔓延している中、寒さに負けずに鳥たちも声をあげている。
ひとり。ただひとり。そこにはお雉以外誰もいない。お京の姿もない。お京はお雉が説得し、寺へと帰るように諭し、そのまま来た道を戻って行った。
お雉の表情は暗い。だが、これで良かったのだろう。今の自分はひとりぼっち。ほんの少しの間だがお京と会えただけでも充分だった。
一緒に行きたい、という気持ちがなかったかといえばウソだった。だが、小さな村の寺でしか暮らして来なかったお京が、このままこの不毛な旅を続けるのは酷だとわかっていた。
そもそも、飢えを凌ぐためには銭を稼がなければならない。だが、寺娘のお京に銭を稼ぐ術など持ち合わせておらず、結局彼女が至った結論は、
自らの身体を売ることだった。
身体を売り、それで得た銭で日々の飢えを凌ぐだけの生活が、苦痛に満ちたモノだということはお雉もわかっていた。いや、お雉こそがその辛さを一番知っていた。
汗臭い毛だらけの太った身体に上に覆い被さられ、魚の腐ったような口のにおいが自分の鼻を汚しても、そこで得る銭は行為に見合った価値があるとはとてもいえないのだ。
いや、それどころか相手の行動次第では心と体、その両方がキズつき、後の人生を苦しみの中で過ごさなければならなくなる。
お雉がその苦痛に耐えることが出来たのは、自分は死んだモノと割りきっていたことはもちろんだったが、自分が人を殺そうと思えば簡単に殺せる人間だという思いもあったし、そして何より支えになっていたのは、死んだ猿田源之助の存在だったのはいうまでもない。
猿田源之助。こころの中で相対死にした男。だが、お雉は生き残り、猿田は死んだ。救えなかった。そればかりがお雉の後悔だった。
死の瞬間に立ち会えなかったことは、良きことだったか。それとも悪いことだったか。そんなことはお雉にはわからない。出来ることなら、寿命でもない仲のいい人の死に様など見たくはないだろう。だが、気づいたら死んでおり、ことばを掛けようにももはや手遅れというのもまた同様に非情な話でもあった。
お雉は刀を抜く。妖しくきらめく刀身。直射する日光、そして白い雪に反射した陽の光が刀身を白く染め上げる。その白の微かな隙間から覗かれるのは、お雉の鋭い目。
つい昨日、数人の男どもを斬り殺したというのに、そこに錆や汚れは一切なく、むしろ血を浴びてより一層の輝きを見せているよう。
お雉は刀の切っ先を自分の喉元に突きつける。目を瞑り、歯をグッと噛み締める。動かない。突いてしまえばすべてが終わる。そんなことはわかっている。だが、出来ない。手は震えている。無駄な力が入っている。まるで自らを地獄の底へ落とすことを拒絶しているようだ。
口が微かに開くと、そこから白く凝固した息が漏れる。頬でひと筋の光がきらめく。光は揺れる。揺れる光は真っ白な雪に反射する。
川の流れる音がする。
息が止まったよう。無駄な力が呼吸を阻害する。と、お雉は何が弾けるように息を吐く。荒々しく、空気を体の中に送り込む。
いつしかお雉の目は涙で溢れている。すすり泣く声が川流れに混じる。
また出来なかった。お雉のこころの中には何度も唱えたことばが反復されている。
本当だったら自分も死ぬべきなのだ。自分だけが生きてはいけないのだ。
猿田源之助、運命を共にした男。彼が死んだ時点で自分も死ぬべきだった。
だが、死ねなかった。
崩れ行く隠れ家の中で微かに見えた、繋がれることのなかったふたつの手。ひとつは猿田源之助のモノ、そしてもうひとつは……。
お雉はゆっくりと刀を鞘に納める。
あの女。裏切り者のあの女こそが、猿田源之助の良い人だったのか。想いが邪魔をする。だが、そうだとしたら、自分が死ぬほどの理由は果たしてあるのだろうか。
あるのだろうか。
約束は約束。それは確かにそうかもしれない。 だが、その相対死が、お雉が生き延びるための詭弁でしかなかったとしたら、どうだろう。
あの時も冷たい雪が降っていた。まるで昨日のような冷たい雪が。
江戸は日本橋。縛られ、冷たい藁の上で正座させられ、晒し者にされているだけの虚無的な時間。横にいるのは相対死の相手とされるポッペンのような目をした男の人形。
そこに現れたひとりの侍。侍は震えていた。寒さもあったろうが、彼が震えていたのはもっと別の理由だった。
血塗れの刀身にギコチナク笑う顔。彼は人を殺したのだといった。それも初めて。そして、彼はお雉の『二度目の』相対死の相手となった。それこそが、猿田源之助だった。
お雉は着物の袖で乱暴に涙を拭った。
ごめん、あたしには、まだやることがあるんだ。お雉は微かにそう呟く。
まだ死ぬワケにはいかない。何故なら、鬼の影を追い続けなければいけないから。
【続く】
そういわんばかりに、お雉は河原の石に腰掛けて川面を見つめている。おそらく今のお雉を見たところで、男たちは欲望に忠実に、かつ溺れたりすることはないだろう。
冷たい雪はいつしか止み、そこら辺一帯が白銀の世界へと変貌している。冷たい空気がそこら中に蔓延している中、寒さに負けずに鳥たちも声をあげている。
ひとり。ただひとり。そこにはお雉以外誰もいない。お京の姿もない。お京はお雉が説得し、寺へと帰るように諭し、そのまま来た道を戻って行った。
お雉の表情は暗い。だが、これで良かったのだろう。今の自分はひとりぼっち。ほんの少しの間だがお京と会えただけでも充分だった。
一緒に行きたい、という気持ちがなかったかといえばウソだった。だが、小さな村の寺でしか暮らして来なかったお京が、このままこの不毛な旅を続けるのは酷だとわかっていた。
そもそも、飢えを凌ぐためには銭を稼がなければならない。だが、寺娘のお京に銭を稼ぐ術など持ち合わせておらず、結局彼女が至った結論は、
自らの身体を売ることだった。
身体を売り、それで得た銭で日々の飢えを凌ぐだけの生活が、苦痛に満ちたモノだということはお雉もわかっていた。いや、お雉こそがその辛さを一番知っていた。
汗臭い毛だらけの太った身体に上に覆い被さられ、魚の腐ったような口のにおいが自分の鼻を汚しても、そこで得る銭は行為に見合った価値があるとはとてもいえないのだ。
いや、それどころか相手の行動次第では心と体、その両方がキズつき、後の人生を苦しみの中で過ごさなければならなくなる。
お雉がその苦痛に耐えることが出来たのは、自分は死んだモノと割りきっていたことはもちろんだったが、自分が人を殺そうと思えば簡単に殺せる人間だという思いもあったし、そして何より支えになっていたのは、死んだ猿田源之助の存在だったのはいうまでもない。
猿田源之助。こころの中で相対死にした男。だが、お雉は生き残り、猿田は死んだ。救えなかった。そればかりがお雉の後悔だった。
死の瞬間に立ち会えなかったことは、良きことだったか。それとも悪いことだったか。そんなことはお雉にはわからない。出来ることなら、寿命でもない仲のいい人の死に様など見たくはないだろう。だが、気づいたら死んでおり、ことばを掛けようにももはや手遅れというのもまた同様に非情な話でもあった。
お雉は刀を抜く。妖しくきらめく刀身。直射する日光、そして白い雪に反射した陽の光が刀身を白く染め上げる。その白の微かな隙間から覗かれるのは、お雉の鋭い目。
つい昨日、数人の男どもを斬り殺したというのに、そこに錆や汚れは一切なく、むしろ血を浴びてより一層の輝きを見せているよう。
お雉は刀の切っ先を自分の喉元に突きつける。目を瞑り、歯をグッと噛み締める。動かない。突いてしまえばすべてが終わる。そんなことはわかっている。だが、出来ない。手は震えている。無駄な力が入っている。まるで自らを地獄の底へ落とすことを拒絶しているようだ。
口が微かに開くと、そこから白く凝固した息が漏れる。頬でひと筋の光がきらめく。光は揺れる。揺れる光は真っ白な雪に反射する。
川の流れる音がする。
息が止まったよう。無駄な力が呼吸を阻害する。と、お雉は何が弾けるように息を吐く。荒々しく、空気を体の中に送り込む。
いつしかお雉の目は涙で溢れている。すすり泣く声が川流れに混じる。
また出来なかった。お雉のこころの中には何度も唱えたことばが反復されている。
本当だったら自分も死ぬべきなのだ。自分だけが生きてはいけないのだ。
猿田源之助、運命を共にした男。彼が死んだ時点で自分も死ぬべきだった。
だが、死ねなかった。
崩れ行く隠れ家の中で微かに見えた、繋がれることのなかったふたつの手。ひとつは猿田源之助のモノ、そしてもうひとつは……。
お雉はゆっくりと刀を鞘に納める。
あの女。裏切り者のあの女こそが、猿田源之助の良い人だったのか。想いが邪魔をする。だが、そうだとしたら、自分が死ぬほどの理由は果たしてあるのだろうか。
あるのだろうか。
約束は約束。それは確かにそうかもしれない。 だが、その相対死が、お雉が生き延びるための詭弁でしかなかったとしたら、どうだろう。
あの時も冷たい雪が降っていた。まるで昨日のような冷たい雪が。
江戸は日本橋。縛られ、冷たい藁の上で正座させられ、晒し者にされているだけの虚無的な時間。横にいるのは相対死の相手とされるポッペンのような目をした男の人形。
そこに現れたひとりの侍。侍は震えていた。寒さもあったろうが、彼が震えていたのはもっと別の理由だった。
血塗れの刀身にギコチナク笑う顔。彼は人を殺したのだといった。それも初めて。そして、彼はお雉の『二度目の』相対死の相手となった。それこそが、猿田源之助だった。
お雉は着物の袖で乱暴に涙を拭った。
ごめん、あたしには、まだやることがあるんだ。お雉は微かにそう呟く。
まだ死ぬワケにはいかない。何故なら、鬼の影を追い続けなければいけないから。
【続く】