【西陽の当たる地獄花~死拾弐~】
文字数 2,219文字
空気が淀んでいる。
何処か空気全体が深緑に染まっているような、そんな光景が広がっている。
「何がどうなってる……」牛馬も困惑する。「おれは、どうしちまったんだ」
「わたしも是非訊きたいですね……」
牛馬と宗顕は完全に困惑していた。ついさっきまでは確かに巨大な水底に蜘蛛の巣が張ったような場所にいたというのに、気づけばここは違う場所へと変化している。
確かに出口のない、見当もつかない場所から出られたというのはふたりとしても幸いなことだったろう。だが、それもまた次から次へと可笑しな場所へと飛ばされてしまえば、それはもはや出口のないカラクリ屋敷も同様だった。
そして今、ふたりは何処かの部屋にいる。それもかなり広い部屋だ。床にはかなり荒く畳が敷かれている。ところどころボコボコ飛び出しているところや、しっかりとハマっていないところを見るに、恐らくはこの畳は落ちて来たのだろうということ。つまり、この部屋全体も反転してしまっているということだ。
それを裏づけるかのように棚に置かれていたであろう花瓶は床の上で小さく飛散し、掛軸は床の上で力尽きた魚のようになっている。
また、回りを取り囲むは襖に障子だった。一見して、それがどんな印象かといえば、
「まるでどっかの城みてぇだな」
牛馬のことばに宗顕は驚きつつも、それを肯定する。城。牛馬のことばは的を射ている。襖を開ければ、その先に殿様か将軍様が鎮座していそうなほど荘厳な雰囲気を醸し出している。
「しかし、その格好は……」
宗顕は胡散臭いモノを見るように牛馬を見る。牛馬の格好は、蜘蛛の巣の上でしていた格好をそのまま絵に書いたよう。フンドシに腹巻き、牛馬の足許には破れた着物と脱ぎ捨てた袴と帯が大きな足の下敷きになっている。
「やっぱ、あの蜘蛛の化け物はマジもんだったってことだろうな」
「マジといわれますと、何か怖いですね」
「あ? 何が?」
「いえ、というのは、世界がひっくり返ってからというもの、秩序といいましょうか、根底にある条理のようなモノがすべて崩壊しているような、そんな感じがしてならないのです」
「それをいうなら、世界が反転しちまってる時点で条理なんてモンはとっくに崩壊しちまってるっていっても可笑しくねぇだろ」
「……そうですね」
もはやこの世界に秩序などというものはない。あるのは混沌のみ。まるで阿片を吸って見る幻覚のように、世界全体が歪んでしまっているような、そんな感じがする。
「……ん?」
牛馬は眉間にシワを寄せ、険しい顔をする。そんな牛馬に宗顕は不思議そうに、
「どうか、されましたか?」
「おれとお前は獄楽院で小せぇ蜘蛛の大群に飲み込まれたよな。お前は、飲み込まれて気がついたら蜘蛛の巣に絡まってたのか?」
「えぇ、そうですが……」
「何か、夢のようなモノは見なかったか?」
「夢……?」
「そうだ。例えば……」牛馬は『あの光景』を思い出すようにいう。「屍となった極楽人が群れになって襲ってくる。それとやはり小さな蜘蛛の大群が足許の土から湧いて出る」
「さぁ……、そもそも夢など見なかったと思います。そのまま起きて、あの場所にいた、というところでしょうか……」
「……そうか」牛馬はアゴに手を当てる。
宗顕のことばが本当なら、牛馬が見たあの屍となった獄楽人を切り捨て続ける光景は、牛馬が見た夢だったということだろうか。
「……いや、あの肉体を裂く感触は本当にあったモノだった」
「何のことです?」
「あの蜘蛛の巣に絡まって目覚める前に、おれは別のところにいた」
牛馬はあの時の光景と経験について話す。自分が体感したあらゆる感触を交えて。
「確かに……、あの感触は本物だった。においも本物そっくりだった。いや、そもそも夢ってのは本物そっくりな感触を感じるモノなのか」
完全に五里霧中、といったところ。それも無理もないだろう。もはや牛馬にとっての世界というモノは崩壊してしまったに等しいのだから。そしてそんな崩壊してしまった世界の中で、牛馬はただひたすらに錯乱し続ける。
牛馬は完全に冷静さを失っている。それはこれまでの牛馬には見られなかったような姿。
「落ち着いて下さい! 感触が本物だったとか、それが夢かうつつかなんて曖昧なモノです。それに、もしかしたらわたしも夢を見ていたかもしれません。そして、それを覚えていないだけなのかもしれません。そもそも、その夢にわたしは出て来られたのですか?」
牛馬は首を横に振って否定する。だが、その動きには何処か淀みが見える。鮮明でない記憶と曖昧な現実。まるで今そこにある出来事自体が夢なのではないかと思えるような曖昧さ。
「……いや、そもそもここは彼岸なのか?」牛馬の疑念は世界へと向かって行った。「おれはそもそも本当に死んでいるのか?」
答えなど出ない。出来ることといえば、この夢かうつつかの曖昧な世界で力いっぱいに生き続けることだけ。だが……。
「牛馬様……?」
呼ばれた牛馬が宗顕の顔を覗き込む。と、その顔は青白く、最悪な現実がそこにあるとでもいわんばかりだった。
「……ここが夢かうつつか、など今はどうでもいい。それよりも、仮にここが夢だとしても、今はただ生き続けることが大事かもしれない、ということではないでしょうか……?」
「……どういうことだ」
問われた宗顕は前を指差す。と、そこには蜘蛛の顔を持った人形の忍がたくさん、ふたりを取り囲んでいた。
【続く】
何処か空気全体が深緑に染まっているような、そんな光景が広がっている。
「何がどうなってる……」牛馬も困惑する。「おれは、どうしちまったんだ」
「わたしも是非訊きたいですね……」
牛馬と宗顕は完全に困惑していた。ついさっきまでは確かに巨大な水底に蜘蛛の巣が張ったような場所にいたというのに、気づけばここは違う場所へと変化している。
確かに出口のない、見当もつかない場所から出られたというのはふたりとしても幸いなことだったろう。だが、それもまた次から次へと可笑しな場所へと飛ばされてしまえば、それはもはや出口のないカラクリ屋敷も同様だった。
そして今、ふたりは何処かの部屋にいる。それもかなり広い部屋だ。床にはかなり荒く畳が敷かれている。ところどころボコボコ飛び出しているところや、しっかりとハマっていないところを見るに、恐らくはこの畳は落ちて来たのだろうということ。つまり、この部屋全体も反転してしまっているということだ。
それを裏づけるかのように棚に置かれていたであろう花瓶は床の上で小さく飛散し、掛軸は床の上で力尽きた魚のようになっている。
また、回りを取り囲むは襖に障子だった。一見して、それがどんな印象かといえば、
「まるでどっかの城みてぇだな」
牛馬のことばに宗顕は驚きつつも、それを肯定する。城。牛馬のことばは的を射ている。襖を開ければ、その先に殿様か将軍様が鎮座していそうなほど荘厳な雰囲気を醸し出している。
「しかし、その格好は……」
宗顕は胡散臭いモノを見るように牛馬を見る。牛馬の格好は、蜘蛛の巣の上でしていた格好をそのまま絵に書いたよう。フンドシに腹巻き、牛馬の足許には破れた着物と脱ぎ捨てた袴と帯が大きな足の下敷きになっている。
「やっぱ、あの蜘蛛の化け物はマジもんだったってことだろうな」
「マジといわれますと、何か怖いですね」
「あ? 何が?」
「いえ、というのは、世界がひっくり返ってからというもの、秩序といいましょうか、根底にある条理のようなモノがすべて崩壊しているような、そんな感じがしてならないのです」
「それをいうなら、世界が反転しちまってる時点で条理なんてモンはとっくに崩壊しちまってるっていっても可笑しくねぇだろ」
「……そうですね」
もはやこの世界に秩序などというものはない。あるのは混沌のみ。まるで阿片を吸って見る幻覚のように、世界全体が歪んでしまっているような、そんな感じがする。
「……ん?」
牛馬は眉間にシワを寄せ、険しい顔をする。そんな牛馬に宗顕は不思議そうに、
「どうか、されましたか?」
「おれとお前は獄楽院で小せぇ蜘蛛の大群に飲み込まれたよな。お前は、飲み込まれて気がついたら蜘蛛の巣に絡まってたのか?」
「えぇ、そうですが……」
「何か、夢のようなモノは見なかったか?」
「夢……?」
「そうだ。例えば……」牛馬は『あの光景』を思い出すようにいう。「屍となった極楽人が群れになって襲ってくる。それとやはり小さな蜘蛛の大群が足許の土から湧いて出る」
「さぁ……、そもそも夢など見なかったと思います。そのまま起きて、あの場所にいた、というところでしょうか……」
「……そうか」牛馬はアゴに手を当てる。
宗顕のことばが本当なら、牛馬が見たあの屍となった獄楽人を切り捨て続ける光景は、牛馬が見た夢だったということだろうか。
「……いや、あの肉体を裂く感触は本当にあったモノだった」
「何のことです?」
「あの蜘蛛の巣に絡まって目覚める前に、おれは別のところにいた」
牛馬はあの時の光景と経験について話す。自分が体感したあらゆる感触を交えて。
「確かに……、あの感触は本物だった。においも本物そっくりだった。いや、そもそも夢ってのは本物そっくりな感触を感じるモノなのか」
完全に五里霧中、といったところ。それも無理もないだろう。もはや牛馬にとっての世界というモノは崩壊してしまったに等しいのだから。そしてそんな崩壊してしまった世界の中で、牛馬はただひたすらに錯乱し続ける。
牛馬は完全に冷静さを失っている。それはこれまでの牛馬には見られなかったような姿。
「落ち着いて下さい! 感触が本物だったとか、それが夢かうつつかなんて曖昧なモノです。それに、もしかしたらわたしも夢を見ていたかもしれません。そして、それを覚えていないだけなのかもしれません。そもそも、その夢にわたしは出て来られたのですか?」
牛馬は首を横に振って否定する。だが、その動きには何処か淀みが見える。鮮明でない記憶と曖昧な現実。まるで今そこにある出来事自体が夢なのではないかと思えるような曖昧さ。
「……いや、そもそもここは彼岸なのか?」牛馬の疑念は世界へと向かって行った。「おれはそもそも本当に死んでいるのか?」
答えなど出ない。出来ることといえば、この夢かうつつかの曖昧な世界で力いっぱいに生き続けることだけ。だが……。
「牛馬様……?」
呼ばれた牛馬が宗顕の顔を覗き込む。と、その顔は青白く、最悪な現実がそこにあるとでもいわんばかりだった。
「……ここが夢かうつつか、など今はどうでもいい。それよりも、仮にここが夢だとしても、今はただ生き続けることが大事かもしれない、ということではないでしょうか……?」
「……どういうことだ」
問われた宗顕は前を指差す。と、そこには蜘蛛の顔を持った人形の忍がたくさん、ふたりを取り囲んでいた。
【続く】