【丑寅は静かに嗤う~信用】
文字数 2,413文字
朧月が夜の湿気を伴って深く沈む。
川のせせらぎは静けさに微かな優しさを与えている。月の光が川面に反映し、絶え間なく流れる川面に揺れている。
川面に反映した月が、江戸切子のような硝子の表面に更に反映している。
それは桃川の水晶体。
桃川はひとり寂しく川面を見つめている。その目は何処となく寂しさに揺れているようにも見えるが、見ようによっては、この世の諸行無常に憂えているようにも見える。
桃川は川流れのささやかな音色に包まれてボーッと座る。お雉と猿田の姿はーー
「ここにおられたか」桃川が振り向くと、そこには猿田の姿がある。「お邪魔だったかな」
「いえ。お雉さんは?」
「あの犬ころが心配で、ひとり遠くを見つめているよ」
「そうでしたか……。猿田さんは心配ではないんですか?」
「心配、ねぇ……。とはいえ、あの高さから落ちたらまず命はないしな……。そういう桃川さんはどうなんですかい? やはり心配なんで」
「まぁ、そうですねぇ。確かに猿田さんのいうことは尤もだと思います。ですが、やはりわたしも心配ですーー」
「そうですか」猿田は大きく息を吐く。「そろそろ本当のことをいったらどうですか?」
桃川の目が一瞬、ギロリと光る。横目で猿田のことを鋭く見るが、猿田はうっすらと笑みを浮かべるばかりで、その姿勢を崩さない。
「本当のこと、というと?」
「どうしてあの猪之助とかいう男の腕に刀をくくりつけて崖から突き落としたんです? それにはちゃんとワケがあるんでないですかい?」
互いの視線が交差する。空気は張り詰め、今にも張り裂けてしまいそうだ。猿田は笑みを浮かべつつも、額には珠のような汗を浮かべ、肩と手は微かではあるが、震えている。
「手が、震えていますよ」桃川。
「質問に答えて頂きたい。それとも、答えられない道理でもあるとおいいかな?」
沈黙が雷のようにふたりの間で炸裂する。互いが互い共に視線を動かすことなく相手の目を見ているが、その目は相手の左手の動きに注意しているのがわかる。
桃川が大きく息を切る。だが、視線は猿田に向けたままだ。桃川ーー
「止めましょう。わたしとあなたがここで揉めても仕方がない」
「ということは、話してくれるということでよろしいかな?」
「話すも何も、大した意味はないですよ」
「意味はない? じゃあ、どうして猪之助をあんな形で海に突き落とした?」
「ちょっとした可能性を考えたんです。確かにあそこから海に落ちれば、水面に叩きつけられただけでもかなりの痛みを伴う。人によってはそのまま気絶して息を引き取るでしょう。ただ、もし仮に犬蔵さんが生きていたとしたら。聡明なあなたならわかりますよね?」
「わからんねぇ……。おれもそんな頭は良くないもんでなぁ」
「……ならいいますけど、傷ついた犬蔵さんが仮に生きてどこかの海辺に流れ着いたとしましょう。そうしたら、どうにかして自分の身を守らなきゃならない。ただ、同じ場所から落ちた者なら同じ海流に乗って同じ場所に辿り着くかもしれない。だからこそ、猪之助の腕に刀をくくりつけて流したんですよ」
「なるほどな。でも、ヤツは盗賊の一味だった男だぜ。面倒なことになりかねないとは考えなかったんですか?」
「彼は盗賊たちから裏切られ、命を狙われています。今更そちらに戻ることもないでしょう。それだったら、彼が合流するしないに関わらず、どこかで無事に暮らしてくれれば、とそうは思いませんか?」
「……まぁ、無事にやってればいうことはないけども、随分な自信なことで」
「……猿田さんは、随分と犬蔵さんに厳しいんですね。何か、あったんですか?」
「別に、何もないさ」
「そうですか。以前、川越天誅屋の話をしていましたから、それに関する何かがあるように思えたのですが」
猿田はその問いに対して口を閉ざす。あたかも何も語りたくないといった感じだが、猿田はふと笑ってみせ、
「まぁ、デブで力自慢の名前に『犬』が付くヤツだったら、昔いたけどな。あの犬ころとは、まったく似てなかった。だからーー」
猿田は何もいわなくなる。桃川はそれに対し、ふと夜の暗い空を仰ぎ見ていうーー
「その、犬の方とは仲が良かったんですね」
猿田はコクりと頷く。
「あの犬ころと違って、おれのことを随分と慕ってくれてた。でも最後はーー」猿田は口をつぐむ。「桃川さんも、あの盗賊どもに狙われていて大変ですね」含みを持たせたような視線で桃川を見る猿田。「ーーまぁ、何があったかは知りませんけど」
「えぇ。……わたしも何があったか覚えてないんです。思い出せばその理由もわかるかとは思うんですが、どうにも」
「そうですか。しかし盗賊なんて大した業の持ち主じゃない。道場でまともに指導も受けてないのが殆どで、まともな剣士などまずいません」
「確かにそうかもしれませんが、でも、百にひとりは剣豪もいるかもしれません。油断は禁物ですよ」
「わかってるさ。おれも、まだ川越にいた頃、その手のはぐれ者でとんでもない腕を持っていたのとひとり、会ったことがあるんでな」
「そうなんですね。ちなみにそれはどんな?」
「川越の宿場町にたむろしていたヤクザの用心棒だ。恐ろしく冷酷で凶悪な男だった。無外流の使い手で、その剣の腕前はとんでもないモノだった。正直、一歩間違えたらおれが死んでいたかもしれない」
「そんな強者がいらっしゃったんですね」
「あぁ。本当に危なかったが、最後はおれの袈裟斬りを避けようとして顔面を斬られ、隙が出来たところを突きで仕留めた。あの時ほど敵と相対して恐ろしかったのはない。きっと、あの野郎は地獄に落ちても閻魔相手に憮然と立ち回ってるだろうな」
「そうなんですね。ーーこんなことをいうのは何なんですが、願わくば、猿田さんとは一度お手合わせしてみたいモノです」
「……そうですな」
その時、繁みがガサッと揺れた。桃川と猿田はすぐさま左親指を刀の鍔に掛けたーー
【続く】
川のせせらぎは静けさに微かな優しさを与えている。月の光が川面に反映し、絶え間なく流れる川面に揺れている。
川面に反映した月が、江戸切子のような硝子の表面に更に反映している。
それは桃川の水晶体。
桃川はひとり寂しく川面を見つめている。その目は何処となく寂しさに揺れているようにも見えるが、見ようによっては、この世の諸行無常に憂えているようにも見える。
桃川は川流れのささやかな音色に包まれてボーッと座る。お雉と猿田の姿はーー
「ここにおられたか」桃川が振り向くと、そこには猿田の姿がある。「お邪魔だったかな」
「いえ。お雉さんは?」
「あの犬ころが心配で、ひとり遠くを見つめているよ」
「そうでしたか……。猿田さんは心配ではないんですか?」
「心配、ねぇ……。とはいえ、あの高さから落ちたらまず命はないしな……。そういう桃川さんはどうなんですかい? やはり心配なんで」
「まぁ、そうですねぇ。確かに猿田さんのいうことは尤もだと思います。ですが、やはりわたしも心配ですーー」
「そうですか」猿田は大きく息を吐く。「そろそろ本当のことをいったらどうですか?」
桃川の目が一瞬、ギロリと光る。横目で猿田のことを鋭く見るが、猿田はうっすらと笑みを浮かべるばかりで、その姿勢を崩さない。
「本当のこと、というと?」
「どうしてあの猪之助とかいう男の腕に刀をくくりつけて崖から突き落としたんです? それにはちゃんとワケがあるんでないですかい?」
互いの視線が交差する。空気は張り詰め、今にも張り裂けてしまいそうだ。猿田は笑みを浮かべつつも、額には珠のような汗を浮かべ、肩と手は微かではあるが、震えている。
「手が、震えていますよ」桃川。
「質問に答えて頂きたい。それとも、答えられない道理でもあるとおいいかな?」
沈黙が雷のようにふたりの間で炸裂する。互いが互い共に視線を動かすことなく相手の目を見ているが、その目は相手の左手の動きに注意しているのがわかる。
桃川が大きく息を切る。だが、視線は猿田に向けたままだ。桃川ーー
「止めましょう。わたしとあなたがここで揉めても仕方がない」
「ということは、話してくれるということでよろしいかな?」
「話すも何も、大した意味はないですよ」
「意味はない? じゃあ、どうして猪之助をあんな形で海に突き落とした?」
「ちょっとした可能性を考えたんです。確かにあそこから海に落ちれば、水面に叩きつけられただけでもかなりの痛みを伴う。人によってはそのまま気絶して息を引き取るでしょう。ただ、もし仮に犬蔵さんが生きていたとしたら。聡明なあなたならわかりますよね?」
「わからんねぇ……。おれもそんな頭は良くないもんでなぁ」
「……ならいいますけど、傷ついた犬蔵さんが仮に生きてどこかの海辺に流れ着いたとしましょう。そうしたら、どうにかして自分の身を守らなきゃならない。ただ、同じ場所から落ちた者なら同じ海流に乗って同じ場所に辿り着くかもしれない。だからこそ、猪之助の腕に刀をくくりつけて流したんですよ」
「なるほどな。でも、ヤツは盗賊の一味だった男だぜ。面倒なことになりかねないとは考えなかったんですか?」
「彼は盗賊たちから裏切られ、命を狙われています。今更そちらに戻ることもないでしょう。それだったら、彼が合流するしないに関わらず、どこかで無事に暮らしてくれれば、とそうは思いませんか?」
「……まぁ、無事にやってればいうことはないけども、随分な自信なことで」
「……猿田さんは、随分と犬蔵さんに厳しいんですね。何か、あったんですか?」
「別に、何もないさ」
「そうですか。以前、川越天誅屋の話をしていましたから、それに関する何かがあるように思えたのですが」
猿田はその問いに対して口を閉ざす。あたかも何も語りたくないといった感じだが、猿田はふと笑ってみせ、
「まぁ、デブで力自慢の名前に『犬』が付くヤツだったら、昔いたけどな。あの犬ころとは、まったく似てなかった。だからーー」
猿田は何もいわなくなる。桃川はそれに対し、ふと夜の暗い空を仰ぎ見ていうーー
「その、犬の方とは仲が良かったんですね」
猿田はコクりと頷く。
「あの犬ころと違って、おれのことを随分と慕ってくれてた。でも最後はーー」猿田は口をつぐむ。「桃川さんも、あの盗賊どもに狙われていて大変ですね」含みを持たせたような視線で桃川を見る猿田。「ーーまぁ、何があったかは知りませんけど」
「えぇ。……わたしも何があったか覚えてないんです。思い出せばその理由もわかるかとは思うんですが、どうにも」
「そうですか。しかし盗賊なんて大した業の持ち主じゃない。道場でまともに指導も受けてないのが殆どで、まともな剣士などまずいません」
「確かにそうかもしれませんが、でも、百にひとりは剣豪もいるかもしれません。油断は禁物ですよ」
「わかってるさ。おれも、まだ川越にいた頃、その手のはぐれ者でとんでもない腕を持っていたのとひとり、会ったことがあるんでな」
「そうなんですね。ちなみにそれはどんな?」
「川越の宿場町にたむろしていたヤクザの用心棒だ。恐ろしく冷酷で凶悪な男だった。無外流の使い手で、その剣の腕前はとんでもないモノだった。正直、一歩間違えたらおれが死んでいたかもしれない」
「そんな強者がいらっしゃったんですね」
「あぁ。本当に危なかったが、最後はおれの袈裟斬りを避けようとして顔面を斬られ、隙が出来たところを突きで仕留めた。あの時ほど敵と相対して恐ろしかったのはない。きっと、あの野郎は地獄に落ちても閻魔相手に憮然と立ち回ってるだろうな」
「そうなんですね。ーーこんなことをいうのは何なんですが、願わくば、猿田さんとは一度お手合わせしてみたいモノです」
「……そうですな」
その時、繁みがガサッと揺れた。桃川と猿田はすぐさま左親指を刀の鍔に掛けたーー
【続く】