【丑寅は静かに嗤う~犬猿~】
文字数 2,774文字
酒場『ごん』の空気は淀んでいる。
店内の奥に居座るは、くすんだ表情、まるで廃人。こころの荒んだ、さも病人。
彼が呷るはキツイ酒。顔を浮腫ませ、ボウッと浮かばす死人の目。
誰も彼に関わろうとせず、関係を持とうとするのは、ひとりの女ーー居酒屋の店主。
「猿田さん、大丈夫かい?」店主はいう。が、店主の呼び掛けに猿田と呼ばれた男は何もいわず、お猪口の酒を煽っては徳利から注ぐ。
猿田ーーボロボロの着物、まるで無宿者。髷は結わず、ボサボサのザンギリ頭を金属の髪留めでうしろに撫で付けている。見るからに胡散臭い雰囲気だが、身体つきは筋骨隆々、屈強な印象。客はそんな猿田を見つめる、遠巻きに。
「ちょっと飲み過ぎじゃないのかい?」
女店主の忠告。そのことばに見えるは、静かなる迷惑。困惑。帰って欲しいという願望。
「なぁ、猿田さん」立ち上がる別の客、見るからに腕っぷしが強そうだ。「おれたちも気持ちよく酒を飲みに来てるんだ。アンタみたいなのがいたんじゃ気分が悪い。今日んとこは大人しく帰ってくんねぇか?」
が、猿田は動かず。まるで仏像、壊れた人形。
「聴いてんのか!?」
村人の怒号。だが、猿田はそんなことお構い無し。そんな態度に村人も怒り。猿田の胸ぐらに掴み掛かりーー
が、猿田は瞬間的に村人を打ち倒す。速すぎる。しかも、伝統的な柔術ではない、見たこともないような徒手空拳。猿田の淀んだ目、その先には殴り倒された村人がひとり。
猿田の眼光、鋭い刃のよう。瞳に光、だが、その目は無機物を見つめるように絶対零度。
「ケンカするなら帰ってくれ!」女店主はいう。「猿田さんも、飲み過ぎはよくないっていってるだろ。そんなことするならーー」
「あのぉ、すみません」そういって店に入ってくるのは、桃川。「お取り込み中ですか」
そんな桃川を呆然とした目で見つめる女店主。猿田の目がギラリと光る。
「……あのぉ、何か?」
自分を呆然と見つめる女店主に問う桃川。女店主は我に返ったように、
「……あぁ、いや。いいんだ。入ってくれ」
桃川を招き入れる。
この女店主、年齢は中年ほどで着物はみすぼらしいが体型はふくよか。どこにでもいそうな中年女性といった印象。
「アンタ、見ねぇ顔だな」猿田がいう。「こっち来いよ」
「猿田さん! 因縁つけるのは止めてよ!」
「因縁なんかつけてねぇさ。いいから来いよ、同じ武士のよしみで仲良くやろうぜ」猿田は再び席につく。
御腰に提げたお刀。桃川が武士なのは一目瞭然か。だが、対する猿田、武士のよしみでとはいうものの、刀はなく、袴も履いていない。何処から見ても下層階級の無宿者。
「は、はぁ……」
桃川は仕方なしという調子で、猿田に近づく。女店主に注文を訊かれ、適当な酒を頼むと、猿田のとなりに腰掛ける。
「アンタ、余所者だろう?」猿田の声にトゲ。
「まぁ、そうですね」揺るがない桃川。
「こんな所に、何しに来た?」
「何しにといわれますと、何とも……」
「答えられない事情でもあるのか?」
「えぇ……、というのも、どうやら川から流れ着いたみたいで。気がついた時には記憶がなくなっていたんです。今は甲子寺の吉備様のお世話になっております」
「艮顕様の?」猿田の意外といった口調。
「へぇ、じゃあアンタがウワサの」女店主。
「えぇ。吉備様には何かとお世話になっておりまして。ありがたい限りです。それはそうと、アナタは……?」
猿田のほうを見る桃川。猿田はそれに気づいたように相槌を打つと、
「猿田源之助、これでも武士の生まれだ」
「武士だっていうけどさ、アンタが刀持ってるところなんか、あたしゃ一度も見たことないけどね」女店主が鋭くいう。
「ハッ、刀か」哄笑する猿田。「もう、随分と触っちゃいないな……」
猿田の目に悲哀と悲愴感のようなモノが見える。どこか寂しそうで、哀愁が漂っている。が、女店主は容赦なく、
「だったら、もう武士なんかじゃないじゃないか。形だけの階級なんか、この村じゃ何の役にも立ちはしないんだからね」
「アンタ……、無礼打ち、って知ってるか?」
女店主のひとことが気に障ったのか、猿田は声に震えを滲ませる。が、女店主は、
「それは脅しかい? やれるモンならやってみな!」
猿田は何もいわない。ただ、お猪口に入った酒を一気に呷ると、懐から出した銭をお猪口に入れ、「邪魔したな」と店から出ていってしまう。シンッとした空気。
「あの……、あの方は?」桃川は訊ねる。
「すまないね。ありゃ猿田さんといってね。いつからかこの村に流れ着いた無宿者なんだ。他の村のモンでもないし、困っていたところを艮顕様の世話になって、村の離れの空き家に住むようになったんだよ」
「そうだったんですね……」
「ま、大方、舐められないようにウソいってるだけだと思うけど」そういって、女店主は桃川の前に徳利とお猪口を置く。「はい、お待ち」
「あ、ありがとうございます」
酒を注ぎ、チビチビと呷る桃川。武士とは思えないほどに控え目なひとくち。
「アンタ、お侍さんにしては控えめだね」
「すみません」
「いやぁ、いいんだよ。気遣わせちまって悪いね。そんなことより、アンタ、記憶がなくなったっていってたけど、本当かい?」
「はい。とりあえず、ケガが治るまでは、吉備様の元でお世話になろうかと」
「ふぅん……。大変だねぇ……」
「でも、お寺の生活にも慣れ始めまして。楽しいもんですよ」
「羨ましい話だねぇ」店内から聞こえる男の声。「ワシもそんな風に誰かの世話になってみたいもんだね、ガハハ!」
そういって店の奥から風呂敷を持った男が、桃川に近づいてくる。男は桃川に断りを入れ、そのまま桃川のとなりに腰掛ける。
男は髷は結っているが、頭は剃っておらず、頭髪が無作法に伸びている。何とも貧相な格好で、猿田と違って身体は野良犬のようにホッソリしている。
「いやぁ、突然すまんね。ワシは旅の商人で、『犬蔵』ってンだ。アンタ、桃川さんっていうんだろ? アンタ、もしかしたら、盗賊に襲われたのかもしれねぇぜ」
「ちょっと、変なこというモンじゃないよ」
犬蔵のひとことに女店主の表情が曇る。だが、犬蔵は無遠慮に、
「だって、そうかもしれねぇだろ? この桃川さんは、川から流れ着いた。川の上流には盗賊の隠れ家があるっていわれてる。可笑しな話じゃないと思うけどねぇ」
「確かに、そうだけどーー」
「あのぉ……」桃川が割り込んでいう。「何も覚えてないんで、どうだったかはわからないんですが……、その盗賊というのは?」
「実はワシもよくは知らないんだ。ただ、ヤツラは、ここら辺を牛耳る盗賊で、そこの連中はみな、十二支の獣を模した面をつけている。ヤツラの名前は『十二鬼面』。そして、その親分の名前はーー」
犬蔵は不敵に笑う。
「『丑寅』っていうんだとよ」
【続く】
店内の奥に居座るは、くすんだ表情、まるで廃人。こころの荒んだ、さも病人。
彼が呷るはキツイ酒。顔を浮腫ませ、ボウッと浮かばす死人の目。
誰も彼に関わろうとせず、関係を持とうとするのは、ひとりの女ーー居酒屋の店主。
「猿田さん、大丈夫かい?」店主はいう。が、店主の呼び掛けに猿田と呼ばれた男は何もいわず、お猪口の酒を煽っては徳利から注ぐ。
猿田ーーボロボロの着物、まるで無宿者。髷は結わず、ボサボサのザンギリ頭を金属の髪留めでうしろに撫で付けている。見るからに胡散臭い雰囲気だが、身体つきは筋骨隆々、屈強な印象。客はそんな猿田を見つめる、遠巻きに。
「ちょっと飲み過ぎじゃないのかい?」
女店主の忠告。そのことばに見えるは、静かなる迷惑。困惑。帰って欲しいという願望。
「なぁ、猿田さん」立ち上がる別の客、見るからに腕っぷしが強そうだ。「おれたちも気持ちよく酒を飲みに来てるんだ。アンタみたいなのがいたんじゃ気分が悪い。今日んとこは大人しく帰ってくんねぇか?」
が、猿田は動かず。まるで仏像、壊れた人形。
「聴いてんのか!?」
村人の怒号。だが、猿田はそんなことお構い無し。そんな態度に村人も怒り。猿田の胸ぐらに掴み掛かりーー
が、猿田は瞬間的に村人を打ち倒す。速すぎる。しかも、伝統的な柔術ではない、見たこともないような徒手空拳。猿田の淀んだ目、その先には殴り倒された村人がひとり。
猿田の眼光、鋭い刃のよう。瞳に光、だが、その目は無機物を見つめるように絶対零度。
「ケンカするなら帰ってくれ!」女店主はいう。「猿田さんも、飲み過ぎはよくないっていってるだろ。そんなことするならーー」
「あのぉ、すみません」そういって店に入ってくるのは、桃川。「お取り込み中ですか」
そんな桃川を呆然とした目で見つめる女店主。猿田の目がギラリと光る。
「……あのぉ、何か?」
自分を呆然と見つめる女店主に問う桃川。女店主は我に返ったように、
「……あぁ、いや。いいんだ。入ってくれ」
桃川を招き入れる。
この女店主、年齢は中年ほどで着物はみすぼらしいが体型はふくよか。どこにでもいそうな中年女性といった印象。
「アンタ、見ねぇ顔だな」猿田がいう。「こっち来いよ」
「猿田さん! 因縁つけるのは止めてよ!」
「因縁なんかつけてねぇさ。いいから来いよ、同じ武士のよしみで仲良くやろうぜ」猿田は再び席につく。
御腰に提げたお刀。桃川が武士なのは一目瞭然か。だが、対する猿田、武士のよしみでとはいうものの、刀はなく、袴も履いていない。何処から見ても下層階級の無宿者。
「は、はぁ……」
桃川は仕方なしという調子で、猿田に近づく。女店主に注文を訊かれ、適当な酒を頼むと、猿田のとなりに腰掛ける。
「アンタ、余所者だろう?」猿田の声にトゲ。
「まぁ、そうですね」揺るがない桃川。
「こんな所に、何しに来た?」
「何しにといわれますと、何とも……」
「答えられない事情でもあるのか?」
「えぇ……、というのも、どうやら川から流れ着いたみたいで。気がついた時には記憶がなくなっていたんです。今は甲子寺の吉備様のお世話になっております」
「艮顕様の?」猿田の意外といった口調。
「へぇ、じゃあアンタがウワサの」女店主。
「えぇ。吉備様には何かとお世話になっておりまして。ありがたい限りです。それはそうと、アナタは……?」
猿田のほうを見る桃川。猿田はそれに気づいたように相槌を打つと、
「猿田源之助、これでも武士の生まれだ」
「武士だっていうけどさ、アンタが刀持ってるところなんか、あたしゃ一度も見たことないけどね」女店主が鋭くいう。
「ハッ、刀か」哄笑する猿田。「もう、随分と触っちゃいないな……」
猿田の目に悲哀と悲愴感のようなモノが見える。どこか寂しそうで、哀愁が漂っている。が、女店主は容赦なく、
「だったら、もう武士なんかじゃないじゃないか。形だけの階級なんか、この村じゃ何の役にも立ちはしないんだからね」
「アンタ……、無礼打ち、って知ってるか?」
女店主のひとことが気に障ったのか、猿田は声に震えを滲ませる。が、女店主は、
「それは脅しかい? やれるモンならやってみな!」
猿田は何もいわない。ただ、お猪口に入った酒を一気に呷ると、懐から出した銭をお猪口に入れ、「邪魔したな」と店から出ていってしまう。シンッとした空気。
「あの……、あの方は?」桃川は訊ねる。
「すまないね。ありゃ猿田さんといってね。いつからかこの村に流れ着いた無宿者なんだ。他の村のモンでもないし、困っていたところを艮顕様の世話になって、村の離れの空き家に住むようになったんだよ」
「そうだったんですね……」
「ま、大方、舐められないようにウソいってるだけだと思うけど」そういって、女店主は桃川の前に徳利とお猪口を置く。「はい、お待ち」
「あ、ありがとうございます」
酒を注ぎ、チビチビと呷る桃川。武士とは思えないほどに控え目なひとくち。
「アンタ、お侍さんにしては控えめだね」
「すみません」
「いやぁ、いいんだよ。気遣わせちまって悪いね。そんなことより、アンタ、記憶がなくなったっていってたけど、本当かい?」
「はい。とりあえず、ケガが治るまでは、吉備様の元でお世話になろうかと」
「ふぅん……。大変だねぇ……」
「でも、お寺の生活にも慣れ始めまして。楽しいもんですよ」
「羨ましい話だねぇ」店内から聞こえる男の声。「ワシもそんな風に誰かの世話になってみたいもんだね、ガハハ!」
そういって店の奥から風呂敷を持った男が、桃川に近づいてくる。男は桃川に断りを入れ、そのまま桃川のとなりに腰掛ける。
男は髷は結っているが、頭は剃っておらず、頭髪が無作法に伸びている。何とも貧相な格好で、猿田と違って身体は野良犬のようにホッソリしている。
「いやぁ、突然すまんね。ワシは旅の商人で、『犬蔵』ってンだ。アンタ、桃川さんっていうんだろ? アンタ、もしかしたら、盗賊に襲われたのかもしれねぇぜ」
「ちょっと、変なこというモンじゃないよ」
犬蔵のひとことに女店主の表情が曇る。だが、犬蔵は無遠慮に、
「だって、そうかもしれねぇだろ? この桃川さんは、川から流れ着いた。川の上流には盗賊の隠れ家があるっていわれてる。可笑しな話じゃないと思うけどねぇ」
「確かに、そうだけどーー」
「あのぉ……」桃川が割り込んでいう。「何も覚えてないんで、どうだったかはわからないんですが……、その盗賊というのは?」
「実はワシもよくは知らないんだ。ただ、ヤツラは、ここら辺を牛耳る盗賊で、そこの連中はみな、十二支の獣を模した面をつけている。ヤツラの名前は『十二鬼面』。そして、その親分の名前はーー」
犬蔵は不敵に笑う。
「『丑寅』っていうんだとよ」
【続く】