【マキャベリスト~夢想~】
文字数 2,285文字
茹で上がったチキンのような汗のにおい。
水の滴る音は神経に過敏に問い掛ける。廃墟の中に隠された秘密の地下室では、地上の前時代的な様相とは違い、遥かに発達していた。
LED灯の白よりも真っ白で温かみのない無機質な灯りの照らすその真ん中に、椅子に座らされた人形がひとつ置かれていた。
人形のパーツには赤の絵の具が所々に飛び散っており、着せられた白いシャツは泥と赤黒い絵の具が入り交じり、余計に汚れて見えた。
「それから?」
人形の傍らに立っていた女がいった。いや、一見すると女にも見えなくもないが、実際は男ーー低い声に立派な骨格、太ましく贅肉まみれの身体に革のボンデージは窮屈で、素材が悲鳴を上げているようだった。
「まだ、訊き足りないか?」
ピクリと動いた人形がいった。いや、人形ではなかった。男ーーその活動レベルの低さから見れば確かに人形にも見えなくはないが、リアルな肌の質感や今にもにおいが漂ってきそうな白い吐息、衣服に染み込んだドス黒い汗は紛れもない人間のモノだった。
オカマは人形らしき男の髪を引っ張り、横面を張った。男の顔は大きく横にブレた。
「足りると思った? さっきから、朝起きたとか、電話が掛かってきたとかそんな話ばかり。アンタ、生徒会長だったんでしょ? スピーチは簡潔に、って習わなかったの?」
オカマは再度男の髪を掴み、頭を持ち上げた。
弓永だった。右えら辺りの切り傷からは血がうっすらと滲んでおり、鼻と口からも微かにではあるが血が流れていた。が、その顔には不敵な笑いがこびり付いていた。強がり、というよりはこころの底から笑っているように見えた。
「何、何が可笑しいっていうのよ!」
激昂するオカマに、弓永はただ笑っていた。オカマは弓永の頬をひっぱたいた。
「笑うのを止めなさい!」
「何で?」
オカマは何も答えなかった。答えなかったというよりは、答えに窮してしたように見えた。恐怖ーー恐れがオカマからことばを奪っているようだった。オカマは気を取り直したように、
「……兎に角、それから?」
「公園で女に襲撃された後か?」
「それ以外に何があるっていうのよ! 時間を引き延ばすのは止めなさい! どうせ、助けなんて来ないのよ!」
「なら、いってやるよ。歩いて火事の現場となった日谷学習塾まで十分掛けていった。途中、マスク警察を気取った老害がマスクも着けずに若い女にツバを引っ掛けてたから、老害をボコボコにして、ついでに連行してやった」
「そんな話はどうでもいいわ!」
「どうでもいいのか?」
「何度いわせるの! あたいが知りたいのは、もっと重要な点なの! アンタがどこでどうしたかなんて事情はどうでもいいわ!」
「だったら、これ以上喋ることもねぇな」
「まだ必要な情報を訊いてないわ! どうでもいい話をしてないで早く話しなさい!」
「ハッ! お前、おれが本当のことをいってると本気で思ってるのか?」
オカマの顔に疑念が浮かんだ。
「……何が、いいたいの?」
「社会はお前の都合でどうこうできるようには作られてねぇんだぜ、オッサン」
「あ?」オカマの声が一気に低くなった。「テメェ今何ていった?」
「社会はお前の都合でーー」
「そっちじゃねぇんだよ!」
激昂するオカマーー弓永の横面を拳で打つ。何度も、
何度も。だが、弓永は殴られて悲鳴を上げるどころか、高笑いしていた。殴られても殴られても、弓永は笑い続けた。それがオカマの怒りのボルテージを上げていく。が、それも最初だけだった。
オカマは肩で息を切った。殴るのに疲れ、手を止めて息を切った。弓永の顔面は血だらけだった。が、その血の海の中で、深海で蠢く陽の光のような無垢な笑みが不気味に揺らめいていた。
オカマの顔から血の気が引いた。
恐怖がシワとなってオカマの顔に浮かび上がった。オカマは悲鳴を上げた。もはや、どちらが暴行されているのかわからないような状況だった。オカマは絶叫し、右腕を振り上げた。
轟音と共にオカマの頭部が弾かれた。
倒れるオカマーー生命の熱がまだ宿っているオカマの血液が、無機質な床面に広がった。この血もすぐに冷たくなり、生命の息吹も絶えるだろうが、弓永には関係のないこと。
弓永は轟音のしたほうを一瞥した。
グラスを掛けた女がひとり。赤いリップに黒い毛皮のコート。手には硝煙を吐き出す小口径のオートマチック拳銃が握られていた。
「まったく、ヘマして。少しはまともにやれないの?」ヒールの音をコツコツ刻みながらそういう女の声には、苛立ちが含まれていた。
「佐野か。よくここがわかったな」
「アナタと懇意にしているゲーム配信者に訊いたの。メンバーシップにも入ってないのにわざわざ二万円も投げ銭して、私用の連絡をしたいって送ったんだから、感謝してよね」
「大鳩か。配信中は電話に出ないからな。で、警察の動きはどうなってる?」
「それを訊いて、わたしがわかると思う?」
弓永はただ笑うばかりだった。佐野は大きくため息をついた。
「警察は、佐武警部を中心に放火の犯人とバットに残った指紋を便りにアナタを襲った誰かさんを追ってる感じだね」
「そうか」
「まったく、ウワサには聴いてたけど、無茶するんだから」佐野は懐からポケットナイフを取り出し、弓永を拘束しているロープに刃を当てた。「ここまで感情が昂ったの久しぶりだよ」
「それよりも、いい加減どういう魂胆でおれをここまで利用したのか教えて貰おうか。武井がピンチだなんてウソまでついて、な」
サングラスの奥で佐野の目がギョロりと光ったようだった。
【続く】
水の滴る音は神経に過敏に問い掛ける。廃墟の中に隠された秘密の地下室では、地上の前時代的な様相とは違い、遥かに発達していた。
LED灯の白よりも真っ白で温かみのない無機質な灯りの照らすその真ん中に、椅子に座らされた人形がひとつ置かれていた。
人形のパーツには赤の絵の具が所々に飛び散っており、着せられた白いシャツは泥と赤黒い絵の具が入り交じり、余計に汚れて見えた。
「それから?」
人形の傍らに立っていた女がいった。いや、一見すると女にも見えなくもないが、実際は男ーー低い声に立派な骨格、太ましく贅肉まみれの身体に革のボンデージは窮屈で、素材が悲鳴を上げているようだった。
「まだ、訊き足りないか?」
ピクリと動いた人形がいった。いや、人形ではなかった。男ーーその活動レベルの低さから見れば確かに人形にも見えなくはないが、リアルな肌の質感や今にもにおいが漂ってきそうな白い吐息、衣服に染み込んだドス黒い汗は紛れもない人間のモノだった。
オカマは人形らしき男の髪を引っ張り、横面を張った。男の顔は大きく横にブレた。
「足りると思った? さっきから、朝起きたとか、電話が掛かってきたとかそんな話ばかり。アンタ、生徒会長だったんでしょ? スピーチは簡潔に、って習わなかったの?」
オカマは再度男の髪を掴み、頭を持ち上げた。
弓永だった。右えら辺りの切り傷からは血がうっすらと滲んでおり、鼻と口からも微かにではあるが血が流れていた。が、その顔には不敵な笑いがこびり付いていた。強がり、というよりはこころの底から笑っているように見えた。
「何、何が可笑しいっていうのよ!」
激昂するオカマに、弓永はただ笑っていた。オカマは弓永の頬をひっぱたいた。
「笑うのを止めなさい!」
「何で?」
オカマは何も答えなかった。答えなかったというよりは、答えに窮してしたように見えた。恐怖ーー恐れがオカマからことばを奪っているようだった。オカマは気を取り直したように、
「……兎に角、それから?」
「公園で女に襲撃された後か?」
「それ以外に何があるっていうのよ! 時間を引き延ばすのは止めなさい! どうせ、助けなんて来ないのよ!」
「なら、いってやるよ。歩いて火事の現場となった日谷学習塾まで十分掛けていった。途中、マスク警察を気取った老害がマスクも着けずに若い女にツバを引っ掛けてたから、老害をボコボコにして、ついでに連行してやった」
「そんな話はどうでもいいわ!」
「どうでもいいのか?」
「何度いわせるの! あたいが知りたいのは、もっと重要な点なの! アンタがどこでどうしたかなんて事情はどうでもいいわ!」
「だったら、これ以上喋ることもねぇな」
「まだ必要な情報を訊いてないわ! どうでもいい話をしてないで早く話しなさい!」
「ハッ! お前、おれが本当のことをいってると本気で思ってるのか?」
オカマの顔に疑念が浮かんだ。
「……何が、いいたいの?」
「社会はお前の都合でどうこうできるようには作られてねぇんだぜ、オッサン」
「あ?」オカマの声が一気に低くなった。「テメェ今何ていった?」
「社会はお前の都合でーー」
「そっちじゃねぇんだよ!」
激昂するオカマーー弓永の横面を拳で打つ。何度も、
何度も。だが、弓永は殴られて悲鳴を上げるどころか、高笑いしていた。殴られても殴られても、弓永は笑い続けた。それがオカマの怒りのボルテージを上げていく。が、それも最初だけだった。
オカマは肩で息を切った。殴るのに疲れ、手を止めて息を切った。弓永の顔面は血だらけだった。が、その血の海の中で、深海で蠢く陽の光のような無垢な笑みが不気味に揺らめいていた。
オカマの顔から血の気が引いた。
恐怖がシワとなってオカマの顔に浮かび上がった。オカマは悲鳴を上げた。もはや、どちらが暴行されているのかわからないような状況だった。オカマは絶叫し、右腕を振り上げた。
轟音と共にオカマの頭部が弾かれた。
倒れるオカマーー生命の熱がまだ宿っているオカマの血液が、無機質な床面に広がった。この血もすぐに冷たくなり、生命の息吹も絶えるだろうが、弓永には関係のないこと。
弓永は轟音のしたほうを一瞥した。
グラスを掛けた女がひとり。赤いリップに黒い毛皮のコート。手には硝煙を吐き出す小口径のオートマチック拳銃が握られていた。
「まったく、ヘマして。少しはまともにやれないの?」ヒールの音をコツコツ刻みながらそういう女の声には、苛立ちが含まれていた。
「佐野か。よくここがわかったな」
「アナタと懇意にしているゲーム配信者に訊いたの。メンバーシップにも入ってないのにわざわざ二万円も投げ銭して、私用の連絡をしたいって送ったんだから、感謝してよね」
「大鳩か。配信中は電話に出ないからな。で、警察の動きはどうなってる?」
「それを訊いて、わたしがわかると思う?」
弓永はただ笑うばかりだった。佐野は大きくため息をついた。
「警察は、佐武警部を中心に放火の犯人とバットに残った指紋を便りにアナタを襲った誰かさんを追ってる感じだね」
「そうか」
「まったく、ウワサには聴いてたけど、無茶するんだから」佐野は懐からポケットナイフを取り出し、弓永を拘束しているロープに刃を当てた。「ここまで感情が昂ったの久しぶりだよ」
「それよりも、いい加減どういう魂胆でおれをここまで利用したのか教えて貰おうか。武井がピンチだなんてウソまでついて、な」
サングラスの奥で佐野の目がギョロりと光ったようだった。
【続く】