【明日、白夜になる前に~拾玖~】
文字数 2,275文字
「どうして逃げようとするの……?」
あの時、たまきはぼくにそう訊ねた。ぼくは答えられなかった。何とかして拘束から逃れようとして右腕を解いたのは良かったが、その結果、たまきはぼくの右腕を「悪い子」と称してそのまま部屋から消えた。
そうかと思いきやたまきは再び部屋に現れた。その時、たまきの右手に握られていたのはーー、
ノコギリだった。
ぼくの背中から一気に汗が吹き出した。まさか、そんな。その思いが脳内を駆け巡る。そんなバカなはずはない。たまきだって、思慮のある人間なのだ。それに、彼女はぼくの……。
その考えが間違いだった。
彼女はぼくの右腕をテープで拘束し直そうとした。ぼくは必死で抵抗しようとしたが、顔を小さな拳で殴られてグッタリし、その隙にひじ掛けと右腕をテープでグルグルに巻かれてしまったのだ。
抵抗しようとも、数日間監禁されて衰弱していたぼくには、それ以上の抵抗は不可能だったのだ。ぼくはたまきにされるがままだった。
「大丈夫。わたしが、アナタの、『右腕』になってあげるから……」
そういってたまきは、ぼくの右腕にノコギリの刃を当てたーー
その後のことは何となくしか覚えていない。とてつもない激痛が走ったのは覚えている。だが、それも流れ落ちる脂汗とアドレナリンがすべてを消し去った。
というか、ぼくは激痛に耐え兼ねて気絶した。そして、目覚めた時にはーーということになるワケだ。
「……そう、大変だったね」里村さんは目を伏せながらぼくの話を聴いている。「変なことを思い出させちゃって、ごめんなさい」
彼女は今にも泣き出しそう。ぼくは彼女の悲痛に満ち満ちた声に居たたまれなくなりそうだった。ぼくは弁解するようにいう。
「そんな謝らないでよ! ぼくだって、バカだったんだーーまぁ、あんなことになるなんて、想像はしてなかったけど。多分、ぼくは誰かの肌に恋い焦がれていたのかもしれない。人恋しくて堪らなかったのかもしれない。そこで、たまきーー彼女と再会してしまった」
ぼくは更に続ける。そう、ぼくは人恋しかったのだ。況してや母を事故で亡くした直後だったこともあって、その想いはより一層強かったのだと思う。で、そこにたまきが現れた。
たまきと再会した時、ぼくの脳内では、中学時代という桃源郷が映し出されていた。無軌道で際限なく楽しかった中学時代。親の庇護のもと、自分の人生という殆ど真っ白に近いカンパスに、暴力的に絵具をぶつけて行くような、そんな楽しさがあった過去を思い出して、ぼくはそれに飲み込まれ、依存するようになった。
彼女とは仲も良かったし、ぼくは中学時代の自分に戻っての無垢で甘酸っぱいような恋愛を楽しんでいた気になっていたのかもしれない。
だが、ぼくももう三十代半ばだ。そう無軌道な生き方もしていられない。何をやったって、お金と責任に付きまとわれる。
人生を生き抜く上で、人の背後に常に付きまとうお金と責任というストーカーのプレッシャーに、ぼくは過去に夢見がちになることで、逃げていたのかもしれない。
確かに人間、結婚しなくても生きていけるし、恋人を作らずとも生きていける。多分、ぼくはあらゆるプレッシャーに対する逃げ道、逃避を過去と恋愛に委ねたのだろう。
何とも情けない話だ。
直人ーー彼は常に現実を見据え、結婚して子供が出来、幸せな家庭を築き上げた上で自分の人生を構築していた。にも拘らず、彼は不幸というこの世界の創造主である神とかいう老害の気まぐれによって、殺されてしまった。
対するぼくは、あらゆる責任を放棄し、過去とその場凌ぎのようなインスタントの恋愛に逃げ、特にやりたいことも希望もなく自堕落に生き残り、漸く訪れ掛けた死の瞬間も、やはり神の気まぐれで右腕を失っただけに留まった。
やはり、死ぬべきは直人ではなくぼくだった。
直人のような価値のある人間が生き残り、ぼくのような価値のない人間が死ぬべきだった。今ではぼくはそう思うーー
「……何も成長してないね」
すべてを聴いた里村さんはそういう。ぼくは思わず、「え?」と訊き返す。
「生きる資格とか、誰が死ぬべきとか、本当に中学生みたいな浅い考え方だな、と思ってさ」
反論できないーー反論できる余地もない。
彼女のいう通りかもしれない。直人が死んだこととぼくが生き残ったこと。これは所詮は単なる偶然に過ぎない。別にどっちが生き残るべくして生き残り、死ぬべくして死んだワケでもない。当たり前だ。
生きる資格ーーそんなモノはない。ただ生きているという事実がそこにあればいいのかもしれない。だって、人は生まれたくて生まれたワケではないのだから。望んで生まれてきたワケではないのだからーー多分。
だが、ぼくは再び過ちを犯す。
「そうはいっても、ぼくはキミがいったように、白夜を見たかっただけなんだよ」
ぼくの声はもはや消え入りそうになっている。里村さんは軽くため息をつき、
「……そんなこともいったね。確かに人は大切な誰かといると、どんなに暗い夜でも白夜になったかのように明るい夜を過ごせる。でもね、それはただ自分だけが良ければいいみたいな身勝手で依存するような恋愛じゃ、より深い沼のような闇に身を落とすだけ。自分も相手も、互いに気を掛けて、愛を持って初めて白夜のような夜が訪れる。アナタには、まだ白夜のような夜は訪れていないんだよ」
つまり、ぼくはまだ本当の白夜は知らない。明日、ぼくに白夜は来るのだろうかーーわからない。ぼくには暗い夜しか見えない。
ぼくは里村さんの話に流星を見た。
【続く】
あの時、たまきはぼくにそう訊ねた。ぼくは答えられなかった。何とかして拘束から逃れようとして右腕を解いたのは良かったが、その結果、たまきはぼくの右腕を「悪い子」と称してそのまま部屋から消えた。
そうかと思いきやたまきは再び部屋に現れた。その時、たまきの右手に握られていたのはーー、
ノコギリだった。
ぼくの背中から一気に汗が吹き出した。まさか、そんな。その思いが脳内を駆け巡る。そんなバカなはずはない。たまきだって、思慮のある人間なのだ。それに、彼女はぼくの……。
その考えが間違いだった。
彼女はぼくの右腕をテープで拘束し直そうとした。ぼくは必死で抵抗しようとしたが、顔を小さな拳で殴られてグッタリし、その隙にひじ掛けと右腕をテープでグルグルに巻かれてしまったのだ。
抵抗しようとも、数日間監禁されて衰弱していたぼくには、それ以上の抵抗は不可能だったのだ。ぼくはたまきにされるがままだった。
「大丈夫。わたしが、アナタの、『右腕』になってあげるから……」
そういってたまきは、ぼくの右腕にノコギリの刃を当てたーー
その後のことは何となくしか覚えていない。とてつもない激痛が走ったのは覚えている。だが、それも流れ落ちる脂汗とアドレナリンがすべてを消し去った。
というか、ぼくは激痛に耐え兼ねて気絶した。そして、目覚めた時にはーーということになるワケだ。
「……そう、大変だったね」里村さんは目を伏せながらぼくの話を聴いている。「変なことを思い出させちゃって、ごめんなさい」
彼女は今にも泣き出しそう。ぼくは彼女の悲痛に満ち満ちた声に居たたまれなくなりそうだった。ぼくは弁解するようにいう。
「そんな謝らないでよ! ぼくだって、バカだったんだーーまぁ、あんなことになるなんて、想像はしてなかったけど。多分、ぼくは誰かの肌に恋い焦がれていたのかもしれない。人恋しくて堪らなかったのかもしれない。そこで、たまきーー彼女と再会してしまった」
ぼくは更に続ける。そう、ぼくは人恋しかったのだ。況してや母を事故で亡くした直後だったこともあって、その想いはより一層強かったのだと思う。で、そこにたまきが現れた。
たまきと再会した時、ぼくの脳内では、中学時代という桃源郷が映し出されていた。無軌道で際限なく楽しかった中学時代。親の庇護のもと、自分の人生という殆ど真っ白に近いカンパスに、暴力的に絵具をぶつけて行くような、そんな楽しさがあった過去を思い出して、ぼくはそれに飲み込まれ、依存するようになった。
彼女とは仲も良かったし、ぼくは中学時代の自分に戻っての無垢で甘酸っぱいような恋愛を楽しんでいた気になっていたのかもしれない。
だが、ぼくももう三十代半ばだ。そう無軌道な生き方もしていられない。何をやったって、お金と責任に付きまとわれる。
人生を生き抜く上で、人の背後に常に付きまとうお金と責任というストーカーのプレッシャーに、ぼくは過去に夢見がちになることで、逃げていたのかもしれない。
確かに人間、結婚しなくても生きていけるし、恋人を作らずとも生きていける。多分、ぼくはあらゆるプレッシャーに対する逃げ道、逃避を過去と恋愛に委ねたのだろう。
何とも情けない話だ。
直人ーー彼は常に現実を見据え、結婚して子供が出来、幸せな家庭を築き上げた上で自分の人生を構築していた。にも拘らず、彼は不幸というこの世界の創造主である神とかいう老害の気まぐれによって、殺されてしまった。
対するぼくは、あらゆる責任を放棄し、過去とその場凌ぎのようなインスタントの恋愛に逃げ、特にやりたいことも希望もなく自堕落に生き残り、漸く訪れ掛けた死の瞬間も、やはり神の気まぐれで右腕を失っただけに留まった。
やはり、死ぬべきは直人ではなくぼくだった。
直人のような価値のある人間が生き残り、ぼくのような価値のない人間が死ぬべきだった。今ではぼくはそう思うーー
「……何も成長してないね」
すべてを聴いた里村さんはそういう。ぼくは思わず、「え?」と訊き返す。
「生きる資格とか、誰が死ぬべきとか、本当に中学生みたいな浅い考え方だな、と思ってさ」
反論できないーー反論できる余地もない。
彼女のいう通りかもしれない。直人が死んだこととぼくが生き残ったこと。これは所詮は単なる偶然に過ぎない。別にどっちが生き残るべくして生き残り、死ぬべくして死んだワケでもない。当たり前だ。
生きる資格ーーそんなモノはない。ただ生きているという事実がそこにあればいいのかもしれない。だって、人は生まれたくて生まれたワケではないのだから。望んで生まれてきたワケではないのだからーー多分。
だが、ぼくは再び過ちを犯す。
「そうはいっても、ぼくはキミがいったように、白夜を見たかっただけなんだよ」
ぼくの声はもはや消え入りそうになっている。里村さんは軽くため息をつき、
「……そんなこともいったね。確かに人は大切な誰かといると、どんなに暗い夜でも白夜になったかのように明るい夜を過ごせる。でもね、それはただ自分だけが良ければいいみたいな身勝手で依存するような恋愛じゃ、より深い沼のような闇に身を落とすだけ。自分も相手も、互いに気を掛けて、愛を持って初めて白夜のような夜が訪れる。アナタには、まだ白夜のような夜は訪れていないんだよ」
つまり、ぼくはまだ本当の白夜は知らない。明日、ぼくに白夜は来るのだろうかーーわからない。ぼくには暗い夜しか見えない。
ぼくは里村さんの話に流星を見た。
【続く】