【いろは歌地獄旅~モータル・ヌーン~】
文字数 2,427文字
明日が来ないとわかっていたらどうだろう。
これはいうまでもない、絶望だ。今日が最後だと宣告されたなら、もうそこには希望など何もない。そこにあるのは虚無的な残り時間と行動力を失った壊れたオモチャ。
人生最後の日はどうやって過ごすか、なんて質問をよく聞くが、こんなのは人生最後の日が来ないことが前提で答えているから答えられるのだ。本当に終わりだとわかってしまったら、もう何も出来やしないだろう。
こんな残酷なことはないとは思えるけど、それ以上にキツイこともあるにはある。それは、
いつ死ぬかはわからないということだ。
そんなの、すべての人間がそうじゃないかといわれればその通りだ。だが、確実に自分の身体が蝕まれているのがわかり、日々の自分が壊れているのを実感できたなら、それはもう殆ど死を宣告されているのも同じだ。
あるいは、他者の手によって唐突に命を奪われるということ。それはまた違ったベクトルで残酷なことだ。他のモノと比べると、自分にとっての最期の日だとわからない上に他者の手によって暴力的に人生を終わらせられる。それほど残酷なこともないはずだ。
誰でも良かった。マヌケな犯罪者がいいがちないいワケ。だが、そこにはある注釈がつく。それは自分自身以外の存在で、かつ自分以外の自分より弱いであろう存在でなければならないということ。
でなければ、犯人の中でこの理論が成り立たなくなってしまう。自分は可能な限り安全圏にいたい。それこそが大前提であるのだから。
だが、凶器を忍ばせて歩くというのは、こころを肥大化させる。自分には切り札がある。何かあればいつでも殺せるという安心感が、精神を密かに高揚させている。
据わった目で眺めるストリートは何処までも灰色だ。そこを歩いているのは、肌色の「害虫」ばかり。自分にとっては何の価値もない。
どうせ長くない。それはこちらも同じこと。何をしたって行き着く先は同じ。なら、この苦しみをひとりで抱えるなんてバカげている。ならば、やることはひとつだけ。
どうせやるなら、もっと人の多いところにしよう。夜の繁華街とか、そういうところだ。移動しなければ。なるべく目立たずに。強大な暴力を胸に携えて、まるで死刑執行人、あるいは死神にでもなったような気分で歩く。
突然、何かがぶつかって来る。
「痛ぇな……!」何処かアンニュイな語調。
振り返る。イラッとする。だが、恐怖は身体に現れている。震えが止まらない。やはり人と対面することに慣れていないとどんなに凶器を持っていようと本当に尊大にはなれない。
「お、お、お前、こそ……!」
勇気を出してそういってみる。だが、ことばは震えている。全身に巣食い蝕む恐怖が、身体からことばということばをすべて奪い去る。
男、取るに足らない男。ジーンズに黒シャツという簡易的な格好に、髪はやや長い。目付きは鋭く、一見してまともな人間ではない。虚無的な笑みの向こう側にあるのは余裕か暴力か。
「あ? 震えてんぞ。しっかりしゃべれ」
まるでこちらを見下すかのような余裕の口調に、焦りが生じる。こんなところで想定外のトラブル。まったく予想していなかったにも関わらず、こんな面倒なことになるなんて。
仕方ない。
ひとりでもいい。
排除してしまえ!
ナイフを取り出し、叫びながら切り掛かる。そこまでは覚えている。あとは、男がふとニヤリと笑ったことぐらいか。
一瞬だった。
一瞬で全身が陥没した。
相手の身体ではなく、こちら側のが。
見えたのは下から突然飛び出して来たパンチが数発。それが見え終わった後は、もう地面とキスしている。気持ちが悪くて仕方ない。殴られた腹の痛みは内臓にまで達している。せきが出る。止まらない。そこで側頭部を蹴られてもはや殆どの思考は吹き飛んでしまう。
目の前に落としたナイフが拾い上げられる。ハンカチで柄を包み、指紋がつかないように周到だ。男はニヤリとする。
「ゴミくず。おれを殺せると思ったか? どうせ誰でも良かったっていうんだろ? なら、ちょうど良かったな。おれ相手で」
そういうと男は尻のポケットからチョコレート色の何かを取り出して開く。と、そこには、
『五村警察署、刑事組織犯罪対策課、強行係警部補、弓永龍』
と明記されている。こんな男が警察官だなんて。でも、これなら確かに『誰でも良かった』というのが成立する。弱い者限定でない、誰でもいいといういいワケが。
と、急にパトカーが我々のすぐ横の道路につき、警察官がふたり出て来る。片方は弓永とかいう刑事に、もうひとりはこちらに。
「大丈夫ですか?」
そう声を掛けられる。多分、被害者はこちらだと思われているのだろう。それを裏づけるかのように弓永のほうでは、
「何してるんだ、それを渡せ!」
と、警官は威圧的に問い掛け、弓永からナイフを奪おうとする。だが、弓永は、
「あ? テメェ誰に口利いてんだ」
「抵抗するつもりか!?」
が、弓永はハンカチで柄を包んだナイフではなく、チョコレート色の手帳を警官に見せる。警官はあからさまに困惑している。と、
「非番だが、手帳は返し忘れた。何か文句あんのか?」弓永が威圧的にいう。
「い、いえ……。でも……」警官は先程までの強気を引っ込めて弱気にいう。
「ナイフはこのクズのだ。多分、繁華街にでも出て大量にやろうと思ったんだろ。で、後はお決まりのヤツだ」
弓永はすべてを見通していた。でも、弓永相手で、ちゃんと誰でも良かったというのが成立するではないか。思わず下らないことを考えてしまう。誇らしげに。
弓永は再度しゃがむと、こちらの前髪を掴み、顔を自分のほうへと向けさせて嗤う。
「度胸がねぇなら静かにしてろ。誰かを道連れにすんじゃねぇ。悪いのはいいワケし続けて何もして来なかったテメェのほうだ」
その時、一瞬だけ弓永の目が鬼のように冷たくなったのが見えた。
ゴミはゴミなりに。分不相応だったようだ。
これはいうまでもない、絶望だ。今日が最後だと宣告されたなら、もうそこには希望など何もない。そこにあるのは虚無的な残り時間と行動力を失った壊れたオモチャ。
人生最後の日はどうやって過ごすか、なんて質問をよく聞くが、こんなのは人生最後の日が来ないことが前提で答えているから答えられるのだ。本当に終わりだとわかってしまったら、もう何も出来やしないだろう。
こんな残酷なことはないとは思えるけど、それ以上にキツイこともあるにはある。それは、
いつ死ぬかはわからないということだ。
そんなの、すべての人間がそうじゃないかといわれればその通りだ。だが、確実に自分の身体が蝕まれているのがわかり、日々の自分が壊れているのを実感できたなら、それはもう殆ど死を宣告されているのも同じだ。
あるいは、他者の手によって唐突に命を奪われるということ。それはまた違ったベクトルで残酷なことだ。他のモノと比べると、自分にとっての最期の日だとわからない上に他者の手によって暴力的に人生を終わらせられる。それほど残酷なこともないはずだ。
誰でも良かった。マヌケな犯罪者がいいがちないいワケ。だが、そこにはある注釈がつく。それは自分自身以外の存在で、かつ自分以外の自分より弱いであろう存在でなければならないということ。
でなければ、犯人の中でこの理論が成り立たなくなってしまう。自分は可能な限り安全圏にいたい。それこそが大前提であるのだから。
だが、凶器を忍ばせて歩くというのは、こころを肥大化させる。自分には切り札がある。何かあればいつでも殺せるという安心感が、精神を密かに高揚させている。
据わった目で眺めるストリートは何処までも灰色だ。そこを歩いているのは、肌色の「害虫」ばかり。自分にとっては何の価値もない。
どうせ長くない。それはこちらも同じこと。何をしたって行き着く先は同じ。なら、この苦しみをひとりで抱えるなんてバカげている。ならば、やることはひとつだけ。
どうせやるなら、もっと人の多いところにしよう。夜の繁華街とか、そういうところだ。移動しなければ。なるべく目立たずに。強大な暴力を胸に携えて、まるで死刑執行人、あるいは死神にでもなったような気分で歩く。
突然、何かがぶつかって来る。
「痛ぇな……!」何処かアンニュイな語調。
振り返る。イラッとする。だが、恐怖は身体に現れている。震えが止まらない。やはり人と対面することに慣れていないとどんなに凶器を持っていようと本当に尊大にはなれない。
「お、お、お前、こそ……!」
勇気を出してそういってみる。だが、ことばは震えている。全身に巣食い蝕む恐怖が、身体からことばということばをすべて奪い去る。
男、取るに足らない男。ジーンズに黒シャツという簡易的な格好に、髪はやや長い。目付きは鋭く、一見してまともな人間ではない。虚無的な笑みの向こう側にあるのは余裕か暴力か。
「あ? 震えてんぞ。しっかりしゃべれ」
まるでこちらを見下すかのような余裕の口調に、焦りが生じる。こんなところで想定外のトラブル。まったく予想していなかったにも関わらず、こんな面倒なことになるなんて。
仕方ない。
ひとりでもいい。
排除してしまえ!
ナイフを取り出し、叫びながら切り掛かる。そこまでは覚えている。あとは、男がふとニヤリと笑ったことぐらいか。
一瞬だった。
一瞬で全身が陥没した。
相手の身体ではなく、こちら側のが。
見えたのは下から突然飛び出して来たパンチが数発。それが見え終わった後は、もう地面とキスしている。気持ちが悪くて仕方ない。殴られた腹の痛みは内臓にまで達している。せきが出る。止まらない。そこで側頭部を蹴られてもはや殆どの思考は吹き飛んでしまう。
目の前に落としたナイフが拾い上げられる。ハンカチで柄を包み、指紋がつかないように周到だ。男はニヤリとする。
「ゴミくず。おれを殺せると思ったか? どうせ誰でも良かったっていうんだろ? なら、ちょうど良かったな。おれ相手で」
そういうと男は尻のポケットからチョコレート色の何かを取り出して開く。と、そこには、
『五村警察署、刑事組織犯罪対策課、強行係警部補、弓永龍』
と明記されている。こんな男が警察官だなんて。でも、これなら確かに『誰でも良かった』というのが成立する。弱い者限定でない、誰でもいいといういいワケが。
と、急にパトカーが我々のすぐ横の道路につき、警察官がふたり出て来る。片方は弓永とかいう刑事に、もうひとりはこちらに。
「大丈夫ですか?」
そう声を掛けられる。多分、被害者はこちらだと思われているのだろう。それを裏づけるかのように弓永のほうでは、
「何してるんだ、それを渡せ!」
と、警官は威圧的に問い掛け、弓永からナイフを奪おうとする。だが、弓永は、
「あ? テメェ誰に口利いてんだ」
「抵抗するつもりか!?」
が、弓永はハンカチで柄を包んだナイフではなく、チョコレート色の手帳を警官に見せる。警官はあからさまに困惑している。と、
「非番だが、手帳は返し忘れた。何か文句あんのか?」弓永が威圧的にいう。
「い、いえ……。でも……」警官は先程までの強気を引っ込めて弱気にいう。
「ナイフはこのクズのだ。多分、繁華街にでも出て大量にやろうと思ったんだろ。で、後はお決まりのヤツだ」
弓永はすべてを見通していた。でも、弓永相手で、ちゃんと誰でも良かったというのが成立するではないか。思わず下らないことを考えてしまう。誇らしげに。
弓永は再度しゃがむと、こちらの前髪を掴み、顔を自分のほうへと向けさせて嗤う。
「度胸がねぇなら静かにしてろ。誰かを道連れにすんじゃねぇ。悪いのはいいワケし続けて何もして来なかったテメェのほうだ」
その時、一瞬だけ弓永の目が鬼のように冷たくなったのが見えた。
ゴミはゴミなりに。分不相応だったようだ。