【明日、白夜になる前に~漆~】
文字数 2,402文字
無音ーー無音が世界を支配している。
むさ苦しい男の部屋には蒸発した汗のにおいが漂っている。ぼく自身ですら若干気持ち悪くなりそうだというのに、これが他人だったらもっと気持ち悪くなっているだろう。
ぼくは汗で濡れたベッドの上でひとり天井を見上げている。これといってやることもなく、スマホを弄って時間を潰すこともできたのだが、正直、今はスマホを触りたいと思わない。
テレビをつけてみても落ち着かず、やっている内容も頭に入ってこない。時間潰しのバラエティ番組。何が面白いのかわからない。むしろ、出演者がキャッキャと楽しんでいる様は、今のぼくには目障りだ。
テレビを消してパソコンを点け、動画サイトをチェックし、それから映像配信サービスをチェックする。目ぼしいモノはない。
何よりも全然落ち着かない。
焦燥感がぼくの頭を焼き、こころを揺さぶる。胸の奧を焦がされるような不快感。
「まぁ、焦ったところで魚は逃げていくだけだよ。じっくりと待って、アタリが来たら一気に竿を引くんだ。後は魚を逃がさないように気張ってリールを巻き続ければいい」
小林さんのアドバイスが頭を過る。まったく、恋愛を釣りに例えるというのは如何なモンかと思うのだけど、一応は結婚している分、向こうのほうが一枚上手なのはいうまでもない。
だが、どうすればいい。魚を釣るのとはワケが違うのだ。今、ぼくがやるべきことはもっと、もっと抽象的で曖昧なモノーー
よくよく考えたら、そもそもこれまではどのようにしてこういったことをしてきたのだろう。わからない。一体、過去の自分はどのようにして女性と会話し、誘い、メッセージを送り合っていたのだろうか。その時も、こんな感じで右往左往したり、居ても立ってもいられないような感覚に陥ったのだろうか。
わからない。
ぼくは、自分がわからない。
ダメだ。ぼくはベッドから立ち上がり、冷蔵庫を開け、よく冷えたロング缶のビールを一本取り出して再びベッドに戻る。
タブを開け、一気にビールを呷る。
ウマイ。何といっても、やっぱりウマイ。
全身が火照り、何だかいい気分になってくる。やはり、困った時にはこれに限る。まぁ、困った時でなくても平気で飲むのだけど。
でも、そんなことはどうでもいい。ぼくは、これさえあれば充分幸せなのだ。別に連絡が来なかろうと関係ない。どうせ、こんなのは一瞬の夢に過ぎなかったのだ。期待した自分がバカだったのだろう。そうだ。何も顔を赤くしたり、青くしたりする必要なんかない。ただ、ニュートラルに戻る、それだけなのだ。
ぼくはロング缶を瞬く間に飲み干し、次の一本を取りに冷蔵庫へ向かう。缶を取り出すと、次に横の棚から買いだめしてあったカップ麺とスナック菓子を取り出す。
水を入れた瞬間湯沸し器を起動し、お湯が沸くまでビールにスナック菓子を摘まみながらゆっくりと待つ。お湯が沸いたらカップ麺の出番だ。お湯を注ぎ、カップ麺を食べ出す頃にはビールも三本目。脂とニンニクまみれのカップを食べながらビールを呷る。
幸せな一時。やはり、人間の幸せは食にあり。色恋に期待したぼくがバカだった。
ぼくは夢中で麺を頬張り、すべてを食べ終えると、そのままトイレへ向かう。
心地よい気分で下を降ろし、便座に座る。世界が揺れているように思える。ぼくの腹が膨らんで見えるーーいや、実際に膨らんでいる。
三十代半ば、いつからか膨らみだした腹も、気づけば贅肉の温床になっている。皮膚の下も内蔵も無駄な脂肪が蓄積されて、だらしのない様相を呈している。
醜い腹だーー不意にそう思う。
トイレを出ると膨らんだ腹に手をやりながら洗面所へ向かう。鏡の前に立ち、自分の顔をじっと見つめる。
自分でも気づかない内に膨らんだ顔。まるでクリームパンのようだ。いや、そんな旨そうなもんじゃない。もっと醜く不細工なモノ。
こんなヤツに女性も寄って来ないよな……。
不意に憂鬱な気分になる。これまで、酒を飲み、脂っこいインスタント食品を嗜むことだけが生き甲斐みたいだったのに。今じゃそれがぼくの人生の足枷になっている。
痩せれば、世界も変わってくるだろうか。
そうは思っても、運動なんか全然していないし、この年になって運動したところで目に見えている。何より、仕事で疲れて帰って来た後に筋トレなんかできるわけがない。
じゃあ、食事制限してみるか。
いや、膨らんだ胃袋で食事制限をしたところで空腹に耐えることは不可能だろう。じゃあ、ぼくはどうすればいいのだ。
ぼくは、どうすればいいーー
このまま誰からも振り向かれず、必要とされずにコレステロールと脂肪に身体を汚染されて死んでいくというのか。
イヤだ。
そんなのはイヤだ。
不意に頬を伝う涙に、ぼくは思わずハッとする。何を泣いているんだ。ここまで全部、自業自得じゃないか。これまで自分がしたくてしてきたことで何を悩んでいるんだ。
だが、ネガティブな思いは止まらない。
数週間前に自室で倒れた記憶が甦る。いずれ、ぼくは誰にも気づかれずに死ぬのか。不安と恐怖がアルコールまみれのマインドにのし掛かる。ぼくはどうすればいい。どうすればーー
スマホが振動する。
メッセージが届いたのだ。
ぼくは飛びつくようにスマホを手にする。メッセージの送り主はーー
里村さんだ。
よかった、無視されてはいなかったのだ。ぼくは安堵すると同時に緊張を覚える。トークの選択画面から見えるメッセージには、
「返信遅れてごめんなさい!……」
その先はメッセージを開かない限り見えはしない。ぼくの心臓が鼓動を打つ。始めはゆっくりだったリズムも次第に早く強くなる。
吐き気が止まらなくなる。
ダメだ。覚悟を決めろ。ぼくは緊張で自分の身体が強張るのを自覚する。そして、
メッセージを開く。
そのメッセージにはーー。
ぼくは大きくため息をつく。
【続く】
むさ苦しい男の部屋には蒸発した汗のにおいが漂っている。ぼく自身ですら若干気持ち悪くなりそうだというのに、これが他人だったらもっと気持ち悪くなっているだろう。
ぼくは汗で濡れたベッドの上でひとり天井を見上げている。これといってやることもなく、スマホを弄って時間を潰すこともできたのだが、正直、今はスマホを触りたいと思わない。
テレビをつけてみても落ち着かず、やっている内容も頭に入ってこない。時間潰しのバラエティ番組。何が面白いのかわからない。むしろ、出演者がキャッキャと楽しんでいる様は、今のぼくには目障りだ。
テレビを消してパソコンを点け、動画サイトをチェックし、それから映像配信サービスをチェックする。目ぼしいモノはない。
何よりも全然落ち着かない。
焦燥感がぼくの頭を焼き、こころを揺さぶる。胸の奧を焦がされるような不快感。
「まぁ、焦ったところで魚は逃げていくだけだよ。じっくりと待って、アタリが来たら一気に竿を引くんだ。後は魚を逃がさないように気張ってリールを巻き続ければいい」
小林さんのアドバイスが頭を過る。まったく、恋愛を釣りに例えるというのは如何なモンかと思うのだけど、一応は結婚している分、向こうのほうが一枚上手なのはいうまでもない。
だが、どうすればいい。魚を釣るのとはワケが違うのだ。今、ぼくがやるべきことはもっと、もっと抽象的で曖昧なモノーー
よくよく考えたら、そもそもこれまではどのようにしてこういったことをしてきたのだろう。わからない。一体、過去の自分はどのようにして女性と会話し、誘い、メッセージを送り合っていたのだろうか。その時も、こんな感じで右往左往したり、居ても立ってもいられないような感覚に陥ったのだろうか。
わからない。
ぼくは、自分がわからない。
ダメだ。ぼくはベッドから立ち上がり、冷蔵庫を開け、よく冷えたロング缶のビールを一本取り出して再びベッドに戻る。
タブを開け、一気にビールを呷る。
ウマイ。何といっても、やっぱりウマイ。
全身が火照り、何だかいい気分になってくる。やはり、困った時にはこれに限る。まぁ、困った時でなくても平気で飲むのだけど。
でも、そんなことはどうでもいい。ぼくは、これさえあれば充分幸せなのだ。別に連絡が来なかろうと関係ない。どうせ、こんなのは一瞬の夢に過ぎなかったのだ。期待した自分がバカだったのだろう。そうだ。何も顔を赤くしたり、青くしたりする必要なんかない。ただ、ニュートラルに戻る、それだけなのだ。
ぼくはロング缶を瞬く間に飲み干し、次の一本を取りに冷蔵庫へ向かう。缶を取り出すと、次に横の棚から買いだめしてあったカップ麺とスナック菓子を取り出す。
水を入れた瞬間湯沸し器を起動し、お湯が沸くまでビールにスナック菓子を摘まみながらゆっくりと待つ。お湯が沸いたらカップ麺の出番だ。お湯を注ぎ、カップ麺を食べ出す頃にはビールも三本目。脂とニンニクまみれのカップを食べながらビールを呷る。
幸せな一時。やはり、人間の幸せは食にあり。色恋に期待したぼくがバカだった。
ぼくは夢中で麺を頬張り、すべてを食べ終えると、そのままトイレへ向かう。
心地よい気分で下を降ろし、便座に座る。世界が揺れているように思える。ぼくの腹が膨らんで見えるーーいや、実際に膨らんでいる。
三十代半ば、いつからか膨らみだした腹も、気づけば贅肉の温床になっている。皮膚の下も内蔵も無駄な脂肪が蓄積されて、だらしのない様相を呈している。
醜い腹だーー不意にそう思う。
トイレを出ると膨らんだ腹に手をやりながら洗面所へ向かう。鏡の前に立ち、自分の顔をじっと見つめる。
自分でも気づかない内に膨らんだ顔。まるでクリームパンのようだ。いや、そんな旨そうなもんじゃない。もっと醜く不細工なモノ。
こんなヤツに女性も寄って来ないよな……。
不意に憂鬱な気分になる。これまで、酒を飲み、脂っこいインスタント食品を嗜むことだけが生き甲斐みたいだったのに。今じゃそれがぼくの人生の足枷になっている。
痩せれば、世界も変わってくるだろうか。
そうは思っても、運動なんか全然していないし、この年になって運動したところで目に見えている。何より、仕事で疲れて帰って来た後に筋トレなんかできるわけがない。
じゃあ、食事制限してみるか。
いや、膨らんだ胃袋で食事制限をしたところで空腹に耐えることは不可能だろう。じゃあ、ぼくはどうすればいいのだ。
ぼくは、どうすればいいーー
このまま誰からも振り向かれず、必要とされずにコレステロールと脂肪に身体を汚染されて死んでいくというのか。
イヤだ。
そんなのはイヤだ。
不意に頬を伝う涙に、ぼくは思わずハッとする。何を泣いているんだ。ここまで全部、自業自得じゃないか。これまで自分がしたくてしてきたことで何を悩んでいるんだ。
だが、ネガティブな思いは止まらない。
数週間前に自室で倒れた記憶が甦る。いずれ、ぼくは誰にも気づかれずに死ぬのか。不安と恐怖がアルコールまみれのマインドにのし掛かる。ぼくはどうすればいい。どうすればーー
スマホが振動する。
メッセージが届いたのだ。
ぼくは飛びつくようにスマホを手にする。メッセージの送り主はーー
里村さんだ。
よかった、無視されてはいなかったのだ。ぼくは安堵すると同時に緊張を覚える。トークの選択画面から見えるメッセージには、
「返信遅れてごめんなさい!……」
その先はメッセージを開かない限り見えはしない。ぼくの心臓が鼓動を打つ。始めはゆっくりだったリズムも次第に早く強くなる。
吐き気が止まらなくなる。
ダメだ。覚悟を決めろ。ぼくは緊張で自分の身体が強張るのを自覚する。そして、
メッセージを開く。
そのメッセージにはーー。
ぼくは大きくため息をつく。
【続く】