【丑寅は静かに笑う~覚醒~】
文字数 2,084文字
世界は開ける。侍の目蓋が開かれる。
「あ! 気がついた!」ハキハキした女性の高い声。「どう? 大丈夫?」
侍の水晶体。ボヤけた視界。その真ん中に若い女性。どこか冴えない田舎の装い。だが、顔はどこかかわいらしい。
「あのぉ……」目を凝らす侍。
「無理しないでくれ! それより、どうだ? 腹は減らないか?」
「い、いえ。別に……」
侍は戸惑う。田舎娘の優しさはどこか押し付けがましく。かしましく。この世の穢れを何ひとつ知らないようで無垢。侍は起き上がる。
「あ! 大丈夫だか?」
娘は侍の身体を支えようとする。が、侍は、大丈夫だと断り、右手で支える全体重。
「なら良かっただ。でも、驚いただ。裏の川に洗濯に行ったら、人が倒れてたんだ」
「倒れてた?」
侍は物思いに耽る。雷雨。思い出す。三つの仮面に追い立てられた地獄のような夜。が、侍は不思議そうに呟く。
「あれ……?」
「どうしただ?」
「わたしはどこから来たのでしょうか……?」
「何いってるだ。アンタはーー」ハッとする娘。「アンタ、名前は?」
侍は首を振る。横に小さく。答えは明白。ただ、その内容は暗中。複雑であろうその胸中。
「覚えてないんだか?……何も」
娘の問いに頷く侍。そんなはずない。だが、現実は反対。そう、侍に記憶はない。
「そんな……。じゃあ、アンターー」
「おや、気づいたかい」
そういって入ってくるは、ひとりの僧侶。剃られた頭に朗らかな顔。背は低く、シワの多さに苦労が見える。衣服も汚れて、どこか貧相。だが、その笑顔は豊かな心を物語る。
「あっ! じさま!」田舎娘がいう。
僧侶と娘、どこか齟齬が見え。侍は顔に疑問を浮かべ。だが、そんなことは気にせず娘はいうーー
「このお侍様、何も覚えてないみたいなんだ」
「侍?」侍は不思議そうに繰り返す。「どうしてわたしが侍、だと?」
娘は笑みを浮かべて床を指す。布団の脇、置かれた空の鞘。
「その鞘、アンタの腰に挿さってただ。お刀はなかったけんど。アンタ、きっとお侍さんなんだと思うだ。じゃなきゃーー」
「お京、あまり詰めるでない」
僧侶は娘ーーお京に苦言を呈す。だが、お京は聞く耳持たず、僧侶に顔向け口を開くーー
「だって、じさま! もしかしたら、お侍さんのことがわかるかもしれないだ。それより、アンタ、本当に何も覚えてないのか?」
侍は黙り混む。沈黙が覚えていないことを物語る。お京はため息混じりにいう。
「なら仕方ね。思い出すまでオラが代わりの名前をつけてあげるだ」
これには侍も驚きを隠せず。僧侶も困惑す。
「これ、お京。勝手なことを……」
「だって、じさま。お侍さんの傷を見ておくれよ」確かに侍は深刻な傷を負っている。「これじゃ、すぐには動けないだ。だから、治るまでここで休んで貰うだ」
「確かに、この傷じゃ動けたもんじゃないね」僧侶は納得したようにいう。「しかし、どうするっていうんだい?」
「そうだなぁ……」考え込むお京、だがすぐに何かを思いつき。「そうだ!『桃の川』から流れついたんだ、『桃川さん』はどうだ?」
「桃川……?」戸惑う侍。
桃川、安直な名前だが、仮の名前としては悪くない。それより、記憶が戻るかどうかが問題。まだ見ぬ未来。どうなっても文句はいえない。それより、今は現実に向き合うべきなのはいうまでもない。
「うん! よろしくね、桃川さん!」お京の顔から笑み零れ。「さて、そうとなったらーー」
「お京」僧侶の呼び掛けにお京は振り向く。「さっきから、焦げ臭いんだが……」
異様なにおい。アッと声上げお京は飛び上がり、
「火ぃ! ご飯ッ!」
お京が走って去っていく。僧侶の話もろくに聴かず。僧侶は大きくため息を吐く。
「すまない。怪我人の前で何ともみっともないというか……」
「いえいえ、そんな。お元気で何よりです」
「そうか、ならいいんだが……」僧侶はお京の去ったほうを振り返る。「あれは『お京』といってな。親のいない独り身で。この村もアンタみたいな若いモンも全然いなくて物珍しいんだろう。どうか、御無礼をお許し下さい」
そういって、僧侶は土下座する。侍ーー桃川は慌てて両手を床につく。
「いえ、とんでもないです! 助けて頂いただけでもありがたい限り。それではーー」
慌てて立ち上がろうとする桃川、だが、その身体は満身創痍。動くことを早々に放棄。痛みにやられて踞り。僧侶は桃川の身体を支えーー
「ほれ、まだ安静にしていないとダメだよ」
桃川も諦めたようにゆっくりと布団の上に正座する。僧侶のいうままに大人しくす。
「その、ようですね……」
「無理することもない。こう見えて、うちも寺だ。ここにいれば身の危険もない。傷が治るまで、ゆっくり休みなさい。いいね」
頷く侍、それを見て僧侶は更にいうーー
「わたしは『吉備』というご覧の通りの僧だ。桃川さん、どうかよろしく」
吉備は一瞬、着物の袖を捲り上げようとして止まる。かと思いきや、袖を捲るのを止め、そのまみ床に手をつける。
一気にかしこまる。空気が引き締まる。
桃川は、静かに礼を返す。
【続く】
「あ! 気がついた!」ハキハキした女性の高い声。「どう? 大丈夫?」
侍の水晶体。ボヤけた視界。その真ん中に若い女性。どこか冴えない田舎の装い。だが、顔はどこかかわいらしい。
「あのぉ……」目を凝らす侍。
「無理しないでくれ! それより、どうだ? 腹は減らないか?」
「い、いえ。別に……」
侍は戸惑う。田舎娘の優しさはどこか押し付けがましく。かしましく。この世の穢れを何ひとつ知らないようで無垢。侍は起き上がる。
「あ! 大丈夫だか?」
娘は侍の身体を支えようとする。が、侍は、大丈夫だと断り、右手で支える全体重。
「なら良かっただ。でも、驚いただ。裏の川に洗濯に行ったら、人が倒れてたんだ」
「倒れてた?」
侍は物思いに耽る。雷雨。思い出す。三つの仮面に追い立てられた地獄のような夜。が、侍は不思議そうに呟く。
「あれ……?」
「どうしただ?」
「わたしはどこから来たのでしょうか……?」
「何いってるだ。アンタはーー」ハッとする娘。「アンタ、名前は?」
侍は首を振る。横に小さく。答えは明白。ただ、その内容は暗中。複雑であろうその胸中。
「覚えてないんだか?……何も」
娘の問いに頷く侍。そんなはずない。だが、現実は反対。そう、侍に記憶はない。
「そんな……。じゃあ、アンターー」
「おや、気づいたかい」
そういって入ってくるは、ひとりの僧侶。剃られた頭に朗らかな顔。背は低く、シワの多さに苦労が見える。衣服も汚れて、どこか貧相。だが、その笑顔は豊かな心を物語る。
「あっ! じさま!」田舎娘がいう。
僧侶と娘、どこか齟齬が見え。侍は顔に疑問を浮かべ。だが、そんなことは気にせず娘はいうーー
「このお侍様、何も覚えてないみたいなんだ」
「侍?」侍は不思議そうに繰り返す。「どうしてわたしが侍、だと?」
娘は笑みを浮かべて床を指す。布団の脇、置かれた空の鞘。
「その鞘、アンタの腰に挿さってただ。お刀はなかったけんど。アンタ、きっとお侍さんなんだと思うだ。じゃなきゃーー」
「お京、あまり詰めるでない」
僧侶は娘ーーお京に苦言を呈す。だが、お京は聞く耳持たず、僧侶に顔向け口を開くーー
「だって、じさま! もしかしたら、お侍さんのことがわかるかもしれないだ。それより、アンタ、本当に何も覚えてないのか?」
侍は黙り混む。沈黙が覚えていないことを物語る。お京はため息混じりにいう。
「なら仕方ね。思い出すまでオラが代わりの名前をつけてあげるだ」
これには侍も驚きを隠せず。僧侶も困惑す。
「これ、お京。勝手なことを……」
「だって、じさま。お侍さんの傷を見ておくれよ」確かに侍は深刻な傷を負っている。「これじゃ、すぐには動けないだ。だから、治るまでここで休んで貰うだ」
「確かに、この傷じゃ動けたもんじゃないね」僧侶は納得したようにいう。「しかし、どうするっていうんだい?」
「そうだなぁ……」考え込むお京、だがすぐに何かを思いつき。「そうだ!『桃の川』から流れついたんだ、『桃川さん』はどうだ?」
「桃川……?」戸惑う侍。
桃川、安直な名前だが、仮の名前としては悪くない。それより、記憶が戻るかどうかが問題。まだ見ぬ未来。どうなっても文句はいえない。それより、今は現実に向き合うべきなのはいうまでもない。
「うん! よろしくね、桃川さん!」お京の顔から笑み零れ。「さて、そうとなったらーー」
「お京」僧侶の呼び掛けにお京は振り向く。「さっきから、焦げ臭いんだが……」
異様なにおい。アッと声上げお京は飛び上がり、
「火ぃ! ご飯ッ!」
お京が走って去っていく。僧侶の話もろくに聴かず。僧侶は大きくため息を吐く。
「すまない。怪我人の前で何ともみっともないというか……」
「いえいえ、そんな。お元気で何よりです」
「そうか、ならいいんだが……」僧侶はお京の去ったほうを振り返る。「あれは『お京』といってな。親のいない独り身で。この村もアンタみたいな若いモンも全然いなくて物珍しいんだろう。どうか、御無礼をお許し下さい」
そういって、僧侶は土下座する。侍ーー桃川は慌てて両手を床につく。
「いえ、とんでもないです! 助けて頂いただけでもありがたい限り。それではーー」
慌てて立ち上がろうとする桃川、だが、その身体は満身創痍。動くことを早々に放棄。痛みにやられて踞り。僧侶は桃川の身体を支えーー
「ほれ、まだ安静にしていないとダメだよ」
桃川も諦めたようにゆっくりと布団の上に正座する。僧侶のいうままに大人しくす。
「その、ようですね……」
「無理することもない。こう見えて、うちも寺だ。ここにいれば身の危険もない。傷が治るまで、ゆっくり休みなさい。いいね」
頷く侍、それを見て僧侶は更にいうーー
「わたしは『吉備』というご覧の通りの僧だ。桃川さん、どうかよろしく」
吉備は一瞬、着物の袖を捲り上げようとして止まる。かと思いきや、袖を捲るのを止め、そのまみ床に手をつける。
一気にかしこまる。空気が引き締まる。
桃川は、静かに礼を返す。
【続く】